稲本和夫さんの言葉「謙虚はお守り」に納得
少し前に、ある記事を見た。その中で、京セラの創業者稲本和夫さんのインタビューがあった。
内容はほとんど忘れてしまったけど、「謙虚はお守り」と言うキーワードが胸の深いところまで刺さった。ぼくに欠けていた事と気が付いた瞬間。
知った風なことをしがちだった
まったく知らない事には基本的に「知らない」と言うタイプ。でも、話しの流れで似たような経験があると、「恐らくこうだろう」的な想像で相手にもっともらしく伝えてしまいがち。
論理的で端的に説明するから、聞く側に疑いを持たれないからタチが悪い。
とは言え、自分で「今の正確さや裏付けが甘いな」と感じる場合。間を置かずに自分なりにリサーチ。間違いが判明したら、「いやいや、この前の説明間違えてた。実は〇〇が正しかったんや。ウソ言うてゴメンね」と伝えるようにしている。
信頼される人間でありたいと思う
短い期間だったけど、公務員の事務職をしてたので、「公文書に間違いがないか?」「誤った情報ではないか?」など、他者に伝える上でかなりの神経を使ってました。
気軽、修正ペンで訂正できないのが公文書。
ま、総理は簡単に改ざんしたので、国民的には公文書への信用は無くなりました。地に落ちてます。
信頼と信用は似て非なる物。
信頼は「積み重ねた関係からの人間性」
信用は「その人の行動」と考えます。
信頼はしても信用はしないのがいい。行動は常に正しいとは限らないのが人間でしょう?
信頼出来る人間とは言っても、やはり人間である以上、思い違いやミスする生き物。それだけに、信頼される人間であろうと努力続けたいです。
いつからミスがないのが当然な風潮になったのか
仕事をしていて一番感じるのが「ミスは人について回る」と言う誤った常識。寛容さがない時代では人は精神的にダメージを負い続けます。
ミスなし人間を当たり前とするのは、人間の本質から遠くはずれた考えと感じます。
ミスする前提で計画を立てると、ミスなく終わればとても気持ちいいじゃないですか?
その上、万一ミスが発生してもそれは想定内。用意しておいた第二・第三の方法があれば混乱しないのではないかな?
その第二・第三の方法は、マネジメントする立場の人間が考える事と私は覚悟しています。その覚悟がない管理職や経営者がどうも目に付きます。
犯人探しに躍起になり、責任を追及。吊し上げることって、果たして生産性が上がるんでしょうか?責任ってマネジメントする立場の人間が負うものでは?
謙虚さは自分は失敗する前提の考えである
ミスがない計画を作る人の傾向に「自分ならミスしない」「ミスしても最小限で被害を食い止められる」と考えるように感じます。
それはいい部分でもあり、自分への慢心でもあると言えますね。その慢心から、ミスする人間を許せず時に「人格まで否定する激しい攻撃」を「執拗に繰り返す」
この時、攻撃される側の人には成長の機会はなくなるだけではなく、他のチームのメンバーをも萎縮させてしまう。結果的に、マネジメントは上手く行かず自分への大きなストレスが雪だるま式に増える。それをまた部下にぶつけて…
最悪の循環って、小学生にも分かりますよね。
さいごに
自分の今の実力になるまで、どうか振り返ってください。最初から今のように出来たでしょうか?分からないピンチを乗り越えてあなたは成長出来たはず。その時、助け船が必ずあったはずです。
その助け船がなかったと思う人は、徳の低い残念な人間と言わざるを得ません。
責任を部下になすりつけ、保身に回る人間になり、信用も信頼も皆無の人間になるのか?
謙虚さで自分の身を守り、周りから信頼され、また周りからも守られる人間になるのか?
それぞれの人としての在り方を振り返ってはいかがでしょう。
じっくり、自分と向き合って結論が出るとよいですね。
今日はこのあたりで。
写真を撮ってる人と友だちになりたいです。よろしくね(^^)