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『創造性は・・・』第六章の読書ノート

郡司ペギオ幸夫著『創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界』の読書ノートは、毎週水曜日の読書会に向けてまとめている。
この六章は、本当にライン引きを拒否するほどの面白いところが盛りだくさんだ。
同時に孫引き記述も多く、それぞれの参考文献に当たりたいところでもある。
今回、初めてスキャンからのテキスト抽出をiPhoneで行った。
いわゆるOCR(死語)なのだが、精度が高くて驚いた。
1990年頃、MacII ci にエプソンのフラットベッドスキャナーで、洋書を読み込み自動翻訳を試していた、当時が懐かしい。

P174
ここまで述べてきた肯定的矛盾と否定的矛盾の共立、すなわちトラウマ構造こそ、「完全な不完全体」を創り出す明確な方法であり、それは本書の冒頭でも述べた、外部を呼び込む方法であり装置なのだが、本章ではその意義を、現代アートの文脈で論じようと思う。
p175
独立に発展した、これら異なる分野は、いずれも、なんらかの「構造」の解体、いわゆる脱構築に辿り着いた後、「個物化=作品化」という問題の前で、立ち尽くしている。構造という完全体を否定し、不完全なもの=途上にあるもの、という理解に到達すると、そこでは作品の完成や、個物の起源まで否定してしまう。それに対して違和感を持たないものは、作家の精神を持たない者だ。
完全か、不完全かのいずれかではない。完全な不完全体だからこそ、「完成」や「できた」という感覚が、作家において現れ、鑑賞者において「わかった」という感覚が現れる。
「完全な不完全体」こそ、芸術において最も顧みられなくてはならない概念なのである。
そして真の問題は、その先にある。
#この章は面白いのだが、論の背景として単純化しすぎているが気になる。

P176
フォーマリズムとは、一九五〇年代、アメリカの美術批評の中から生まれた、「絵画にしかできないことは何か」を追求した現代アートの運動である。そこではまず、絵画とは描くための「表面」を持つものだという前提が発見される。次に、その表面は無際限に広がっているわけではなく、「枠」によって境界づけられた有限性を持つことが理解される。
つまり表面と枠さえあれば、絵画は成立してしまう。そこで、この表面と枠の意味を最大限活かす絵画が模索される。
p177
この文脈において、大画面を塗ることそのものに集中する抽象主義表現が生まれる。
p177
絵画を「平面性」と「枠」で規定する文脈は、さらに徹底される。元来三次元的な立体物を平面に描き、枠の中に押し込めるのは土台無理がある。ならば、最初から平面的で枠の中に収まるものを描けば、それこそ本質的絵画なのでないか。
ジャスパー・ジョーンズは、そのように考え、元々枠に収まった平面である「アメリカ国旗」や「標的」を描くことになる。ロバート・ラウシェンバーグは、インクを層状に重ねる印刷技術のように、枠の中に複数の絵を重ねることで、原理的に有限領域でも無限の可能性が圧縮できることを示し、その意味で、「平面性」と「枠」という前提を最大限活かした方法を提示する。こうして、一九五〇年代後半から六〇年代にかけて、抽象表現主義に代わり、ネオダダという芸術運動が台頭した。
p177
この文脈の果てに現れた芸術運動が、一九六〇年代後半のミニマリズムである。枠に囲まれた平面である限り、そこに「描かれる」ことになる。描かれたのではなく、絵画を、単に「絵具ののった平面」として、もっと言うなら厚みのある物体にしてしまう。
#ここを一種の限界と見る、美術史観は共感できるところ。
写真もこの限界を打ち破るものとして、現代アートの俎上に載ってくる。

P178
ミニマリズムと似た芸術活動の一派として、日本で一九六〇年代末から七〇年代に現れた「もの派」が挙げられる。
#石内都や宮本隆司は「美共闘」出身。

P180
「もの派」の他の作家、李禹ふぁんにしても菅木志雄にしても、そこで強調されるのは、形相と質料の対立における質料ではなかったのか。形相とは、物質性に依存しない形式であり、情報の作る構造である。対して質料とは、形相のみに還元しては失われてしまう、物質それ自体のことだ。
一方で形相としてのミニマリズムが現れ、それと独立に見えながら、他方で質料に特化する「もの派」が現れるという動きは、二項対立的な概念が競い合うように現れる、科学や心理学などではお馴染みの歴史だと言えるだろう。
#このくらい解像度を低くすると僕にもわかりやすい。(^^)
Pomeraから、李禹ふぁん、の漢字が出せない。

p181
そして多くの場合、二項対立の成分、両者を共に引き受け、折衷するという方針が、最終的に取られるようになる。はたして、現代アートはどうか。一見すると、ミニマリズム批判の後出現したロバート・スミッソンのランドアートは、そのような二項対立に対する折衷的解決と解釈できる。
P182
ロバート・スミッソンはミニマリズムの作家として活動した後、フリードのミニマリズム批判に抗するように、地面をブルドーザーで掘り起こし、地形を変質させるランドアートを実践する。
P182
それは荒々しい自然自体でもないし、人間が住む都市環境のような人工物に特化したものでもない。いわば「自然と人工」という二項対立的なものを共に引き受け、折衷した体裁を取っている。人工は、人間が見出す形式(形相)であり、自然は、人間の認識からこぼれ落ちる物質性(質料)を意味するものであるから、「自然と人工」を共に引き受けるとは、「質料と形相」を共に引き受けることを主張する作品とも考えられる。
#ランドアートは本物を見るためには、オンサイトに行かなければならない。ギャラリーでは“写真”が展示され、取引された。これが写真が現代アートと交わった時、と教わったことがある。
保坂にいわせれば、デュシャンの泉をスティーグリッツが撮影していることも取り上げたい。

P183
カオス力学系は、ミクロとマクロを接続する切り札として期待されたものだ。
P183
カオス力学系は、インクの粒子のようなデタラメにしか見えない運動を、決定論的に記述する時間発展の仕組みなのである。だからそれは、ミクロとマクロを接続すると期待されたものだった。
P184
ミクロは、物理学の文脈における実体であり質料、マクロは、同じ文脈における形相に対応すると言っていいだろう。つまり「ミクロとマクロ」の調停とは、「質料と形相」の調停の、変奏なのである。
#ポスト構造主義の“ポスト”とは「調停」ではないか、と僕も思う。
p185
しかし、現代科学が理解する意識や生命が、二項対立的な「マクロとミクロ」を過不足なく関係づけ組織させた「完全体」であるのに対し、スミッソンのランドアートは、不完全であること、外部を受け入れ壊れていくことをその本質としている。まさにミニマリズムを批判したフリードの、芸術は無時間的なものであるべきだという主張に、真っ向から反対し、スミッソンは、壊れゆく動勢として「エントロピー」を標榜したのである。
p185
これに対して、現代科学は、ミクロとマクロ、システムの内側と外側を過不足なく組織しておいて、想定していない外部がここに加わるなら、いくらでもそれを引き受けて変更できると主張する。それが、システムの「開かれた」態度表明だ。
P186
「部屋の中にある椅子は皆、座られていて空きはないが、誰か来れば、椅子は増やせますよ」、そう言っているようなものだ。対してスミッソンは、最初から部屋に誰も座っていない椅子を用意しているのである。これこそが、不完全さである。虚無や穴が「不在」として理解されるために、完全な形で構成される。椅子を用意しておく、ということはその一つの端的な表現だ。これこそ、「完全な不完全体」と言えるものだろう。ちなみに、完全ではない不完全体は、座られてはいないが、座ることができない、壊れた椅子だ。
#ポスト≒調停に対して、天然表現の態度、調停せず矛盾のままにすることで、不在/穴/虚無/つっこみどころ/余白、ってことがミソに思う。

p187
芸術作品の作家は、制作において、否定的矛盾と肯定的矛盾を考慮し、「完全な不完全体」を作り出そうとしている。できた作品とは、そのようなもののはずだ。しかし、作品は、完成した途端に、世界から切り離された、ある一個の独立な、不完全ではない「完全な物体」と思われてしまう。
P188
しかし、芸術作品は、暗黙のうちに、大前提として完全体とみなされる。それは何も、完全な秩序だった完全性を意味することや、構造があることを意味するのではなく、外部の関与なく、それ自体として周囲から切り離せることを意味する。こうして、作品の対象化が自明なものと担保されるとき、作品は記号と見なされることになる。絵画は、作家の意図を剥奪され、単なる物体となったとき、「意味のない物体」となる。それは対象化された以上、いかようにも、自由に意味を与えられる記号とみなされることになる。
p189
このように考えるなら、椹木野衣の言うように、芸術作品は、貨幣に酷似している。
#現在のマネーゲームとしてのアート、記号としてのアートとはどういうことか?

P197
山本は人間中心主義批判の文脈で、人間以外の鑑賞者を取り込む芸術の可能性を指摘する。それはしかし、困難な試みではないのか。人間中心主義を思弁的実在論に依拠して構想するなら、思弁的実在論が外部を否定的ニュアンスでしか語り得ないように、人間世界外部についても否定的にしか語り得ない。その意味で、動物や植物、鉱物までをも鑑賞者とすることは、成立しない。積極的に取り入れられる「動物」や「植物」、「鉱物」は、もはや人間中心主義の中で現れた自然に過ぎないからだ。外部は、何を取り込むか指定して取り込むことはできない。本書で繰り返すように、外部は、召喚するしかなく、その賭けに出るしかないのである。
#人間中心主義批判のくだりは、僕は納得がいかないのでバッサリ割愛。

P201
まさに千葉の論じるように、ポスト構造主義は、新たな他者、新たな外部を見つけることで議論を展開してきた。しかしその他者、外部が、本書で用いてきた外部と同じなのかというと、そうではない。
p201
本書で用いてきた外部は、あらかじめ何がやってくるのか、その片鱗も想定できない徹底した外部である。だから、むしろポスト・ポスト構造主義と呼ぶべき、思弁的実在論が構想する外部に親和的だ。
P202
ところが、哲学は、(外部を感じない者にとって)世界を記述し切っているように見えてしまう。哲学では、他者は覚い知れない外部ではなく、不定さを纏わせながら、世界の構成要素として描かれているからだ。哲学は、他者を導入した上で世界を語り尽くす。だから、
むしろ芸術において哲学を積極的に使おうとすると、世界と哲学をピッタリと一致させてしまい、制作それ自体とポスト構造主義とをピッタリと一致させてしまうことになる。
p203
そうなると何が帰結されるか。構造としての作品は「完全」であったが、ポスト構造主義に基礎付けられた作品は、「不完全」でなくてはならない、といった誤解が生じるだろう。それは決して完成しない作品、永遠に途上にあることによって現代思想的作品となることが謳われることになる。
永遠に途上にあることのもう一つの実現形式は、完全に完成したと当面は考えることができるが、常に変更に開かれていることを主張することである。
p203
作家は完成させる。科学者の多くは、科学の制度において実験の完了やモデルの完成を基礎付けられ、それに従って完了する。どうすれば結果が出たことになり、論文としてまとめられるか、決められている。つまり「完成」は、制度に従うことで実現される。対して、作家は、自分の責任において制作の完了や完成を決定する。それは途中で「やめる」のではなく、完成させるのである。
#まさに現代アートの背景ですね。

p205
最終的に、科学は「完全体」として、その都度、理論やモデルを提出するが、芸術は「完全な不完全体」を作品として掲げるものではないか、という見解を得るに至った。それは科学と芸術の決定的違いに思える。
芸術に死を賞告し、新たな芸術を模索するとき、人間中心主義の外部へ至ることが必要になる。もちろん、人間と相関を持って立ち現れる「もの」の外部へは、そう易々と到達できない。安易に人間外部の自然を取り込もうとすると、逆に、人間中心主義に無自覚に回収されることになる。
何が必要なのか。まさに外部にアクセスすること、外部を召喚することであるのだが、既存の方法は多くの場合、個別的で、場当たり的で、私秘的である。それを超えた普遍的な展開こそが、天然表現なのである。
#ここが、この本の結論のような気がする。

p207
「科学によって魔術が消えた」というとき、それは「完全な知識によって、無知(不完全な知識)に基礎付けられた魔術的なものが解消された」ことを意味してしまう。そうであるなら、再魔術化は、完全・不完全の二項対立の中で、不完全に肩入れすること、科学や知識を捨てること、だけを意味する。
これに対して、外部を消し去って説明し尽くすことを非魔術とするなら、魔術とは外部を担保し、これと積極的に関わること(召喚すること)で可能となる。再魔術化は、「完全な不完全体」によってこそ、実現できるのである。
#ここは、将来のメモとして残す。

p208
ミシェル・フーコーは、サミュエル・ベケットの戯曲から「誰が話そうとかまわないではないか。誰かが言ったのだ。誰が話そうとかまわないではないか」を引用し、「作家とは何か」を論じた。それは、「話した後、発話自体から発話者は完全に消滅してしまうのか」という問いであり、その延長線上にある、「作者は、作品を完成させたのち、作品自体から完全に消えるのか」という問いを論じるものだ。
作品から作家が消える、という主張は、絵画は所詮、絵の具を塗りたくった物体に過ぎない、という主張に通じるもので、作品が完成した途端に、その周囲から切り離され、意味を失うという主張につながる。だから、実は「作品から作家が消える」という主張は、芸術の死という主張に通じている。
#発話者が消える下りは、デリダの差延、を彷彿とさせる。ここはベンヤミンのアウラの喪失、と並べて保坂が掘っていきたいところ。

p210
アガンベンは、確かに、作品において作家性が完全に消え去り、作品は完全なものとなる、などという見解は持っていない。完全どころか作品は空虚を持ち、鑑賞者はむしろ作品から無限に遠ざかることで、作品の空虚を実体化し、作品の鑑賞を実現することになる、と述べている。
p210
作家は表現の中で不在だからこそ、「誰かわからないが、言ったものがいる」という形で作家を逆に浮かび上がらせる。それ以上のものではない。これに対して天然表現は、より明確に、作家性、当事者性を論じられる。
p214
作家は、「不在」ができたかどうかを慎重に見極める。単なる穴や亀裂ではなく、「イメージされる全体」と「選択された断片」とを接続しようとする試みが進められる。同時に、表現されたものからイメージされる全体や、選択された断片だけからは、いかに頑張っても接続は不可能だという感覚が、作家においてもたらされる。こうして、全体と断片は接続を欲しながら、表現されているものだけでの接続は、不可能だと了解される。接続を実現することは、諦められることになる。「接続」が肯定的矛盾で、「諦め」が否定的矛盾であることは明らかだ。ここに「不在」が形成され、「完成」がやってくる。
鑑賞者もまた、穴や製を見出しながら、そこに「不在」を見出す者たちだ。だからこそこに鑑賞者なりの作品に対する「理解」がやってくる。不在を作り出し、「完成」や「理解」として作品が体験されるわけだ。
#「客観的になるということは、知る者の痕跡を持たない知識を追い求めるということだ。」『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン著

2023/12/02 10:31

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