見出し画像

絡まり合う生命第12章後編:記号論のよりみち

正直、生命記号論に入ると、難しい。
保坂は、思弁的すぎる印象すら持つ。
なので、後編は少し手抜きがちで、終わらせる。

・生命
ホフマイヤーの生命記号論
個々のミツバチは、記号論過程の中の解釈者として、カオスを自己組織化する。記号論過程の中に、ミツバチは生ある自己として現れ、生命活動の全体性に参入する。p270

生命は記号論過程の産物なのである。コーンが言うように、人間が人外と共有するのは、身体があるという点ではない。人間と人外とを問わず、あらゆる有機体が、諸々の記号とともに、記号を通じて生きているという事実こそが、諸自己の生態学の本領である。p270

しかし、アヴィラの森の諸自己の生態学によって描き出される記号過程は、人間を含む生命全体を呑み込んで波乱を抱える。そのことを自己の変調の面から捉えるためにコーンが持ち出すのが、「魂=盲(soul-blindness)」という概念である。私たち自身や他者を人間として見ることが出来ないと想定する事態を、哲学者S・カヴェルは魂=盲と呼んだが、コーンが描く諸自己の生態学では、魂=盲は人間だけにとどまらず、人外の自己をも含む問題となる。p270-271

・パースペクティヴ
アヴィラの森の諸自己の生態学では、人間も非人間も等しく記号論的自己として諸々の自己に関わり続けている。その世界はE・ヴィヴェイロス・デ・カストロが、欧米的な多文化主義に対照させながらの多自然主義と呼んだものに近い。p273

多自然主義では、身体を持つあらゆるそんざいが〈私〉のパースペクティヴを持ち、自らが生きる、異なる自然(動植物、無生物、超自然的存在など)を、文化として眺める。p274

パースペクティズムを把握するためには、それに先だって、「不可知論」を超えて知ることについて考えておかなければならない。パースによれば、あらゆる自己によって、あらゆる経験と思考は、記号によって媒介されている。そのため、人間どうしの間主観性もしゅを横断してのコミュニケーションも、質的には変わりはない。それらは、全て記号過程だからである。イヌたちが襲われる前に何を考えていただけでなく、こうもりになることとはいかなることなのかについても、私たちは知ることが出来る。思考に関わりあうプロセスに、自己が関与するからである。p274

・形式
・森の思考
>形式は、制度や資本主義やインフラか?
>難しいから省略

野生の思考とは、記号の上に押しつけられるものではなく、記号の間の関係から創発する思考様式なのである。p281

第12章補記:考える、生きる
・我と、対象としての〈それ〉
・殻を破って生まれし人類学
(つかれた省略。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?