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私と家族(後編)|発達障害の家族と生きるは己を高める滝修業のごとし

さて、後編です。
前編で書いたような事情から、7歳から母とふたりっきりになりました。
貧しくて、哀しくて、辛くて、切なくて、苦しい毎日でした。おそらく。おそらく、というのはそのへんの感情については、あまり覚えてないんですよね。頭の中の何かの線を、ある意味プチっと切ったんだと思います。

とにかく、客観的に観て、現在にも未来にも何ひとつ希望の光が見いだせない環境でした。しかし、それこそがまさに結果オーライでもありました。幼い私には与えられるもの、用意されているものが何もない、助けてくれる人も誰もいない、そして、どうやらこの先もそれは期待できない。絶望的で八方塞がりな環境だったからこそ身についた自己責任に基づく主体性。光と希望は、自分自身で考え行動することでしか手に入らない、つまり自らの意思と努力で作り出すものだというシンプルなプロトコル。そういったものを身につけることができました。結論から言えば、ですけどね。

 もちろん、子どもの頃は発達障害なんて言葉なんて、というか、概念、存在自体知りませんでしたから、母との生活にいろいろ戸惑うことは多かったですね。
過去の記事にもそのようなことは書いたことがありますが、まず第一にまったく人の話を聞かない。そしてまったく何も見ない。結果、ほとんど過去の記憶がない。あと、一人では何もできない。このあたりは純粋に困りますし、まー手がかかりました。それ以外に代表的な傾向を挙げるとすれば、極めて被害妄想が激しいことと、非常にヒステリックで興奮すると抑えが効かない。近くにあるモノ投げたりしちゃいます(笑)。ほら、あれ、昔ありましたよね?ガラスでできた大きい灰皿、よく応接室なんかに置いてあるやつ。一番危ないものだとあれを投げつけられたことがありますね。あと、一度だけですけどえんぴつで太ももを刺されたこともあります(笑)。

大きなダンボール箱を拾ってきて部屋に置き、その中に自分のお気に入りのものたちと一緒に入り家の中ではもっぱらそこで過ごしました。そうしてつくった自分の居場所の中で、今と未来について小さい頭で考えた。脳に汗をかくほど考えた。この家はもうあかん。俺が自分でなんとかすることでしか未来はない。乗り物もなければ地図もなく、地図の書き方を教えてくれる人もいなかった。そのすべてを手にするためには、今は勉強するしかないと思いました。5年生になる頃中学受験することを母に告げ、以降毎日猛勉強するも受験が直前に迫ったある日、私が取り寄せた願書を見て母は言うんです。「お金ないから私立は無理やで」と。約2年です。ちゃんと伝えてずっと勉強していたんですがね。ま、ちゃんと聞いてもなけりゃ、見てもなけりゃ、覚えてなけりゃ、致し方なしでしょう。が、その頃の私は絶望しましたよ。やる気を失くさせるプロ。絶望請負人。悪魔、鬼、いろいろ呼び方はありますが、全部うちのおかんのことですね。それらの異名を欲しいままにしていらっしゃいます。少なくとも昔、子どもの頃はそう思ってました。いや、今でも事実そうなんですが、そうなんですけど発達障害であることに私が気づいてからは見方は変わりました。少なくとも、わる気はないんだな、と。ちなみに、この時の危機は、志望校を国立に変えて教育大附属に入ることで難を逃れましたが、あれはまさに危機一髪でした。笑

私が大人になってからもいろいろありました。しかしそれを書くとなると前後編で終わらないので書きません。とにかく、それが私の親、私の家族です。やっぱ、ちょっと悲劇的になりましたねー。そんなつもりじゃないんですけどね。これでけっこー私は、自分自身の生い立ちやその後の人生について満足してますし、気に入ってもいます。はめられた手かせ足かせを引きずって走ってるうちに重さは感じなくなりました。ゼロから自分で考えて、自分で自分の人生を作ってきた記憶と感触、その各時代の手触りが好きです。

今日は、少し長くなりました。
64日目でした。

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