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プリンス・ファミリー、ザ・タイムの重要メンバーであり、ソロでも成功を掴んだギタリスト、ジェシー・ジョンソン。

 憧れのスライ・ストーンや、可愛がっているディアンジェロらとジャムをしつつ、現在も音楽活動を活発に続ける彼は、プリンスを中心に確立されたミネアポリス産ファンク・ロック・サウンドを軸にして、今なお進化し続けている。

ROCK STAR

クールな時代の象徴

Jesse Johnson

 2008年に5枚目のソロ・アルバム『Verbal Penetration』をリリースしたギタリストのジェシー・ジョンソンは、フィラデルフィアのラジオ・パーソナリティ、ダイアナ・ウィリアムスのリビングでくつろぎながら、炭酸水を飲んでいた。80年代に一世を風靡した“ファンク・ロック・ソウル・アーティスト”の顔にはみんな、年季の入った深い皺が刻まれ、それが波乱万丈な人生を物語るが、50歳をすぎたジェシー・ジョンソンは今でも滑らかな肌を保ち、若さをまとっていた。

 その前の晩、4人の子供の父親であり、一度の離婚経験があるジェシー・ジョンソンは、ピンクのシャツでHard Rock Cafeのステージに立ち、1981年にミネアポリスのファンク集団、ザ・タイムの一員としてデビューした頃から変わらぬフレッシュなパフォーマンスを繰り広げた。オーディエンスのリクエストに応え、「Baby Let's Kiss」や「Be Your Man」といったヒット曲も披露していた。「80年代に私の音楽を聴いてくれた人の期待には、毎回応えないといけないと思っている」と、ジェシー・ジョンソンは言う。「私は、彼らの青春時代、“クール”な時代の象徴なんだ。だから私は常に、ルックスにおいても、サウンドにおいても、クールさを保っていないといけない」。

13歳の頃、ジミ・ヘンドリックスの「Red House」に衝撃を受け、初めてギターを買った時から、ジェシー・ジョンソンは全身全霊で音楽と向き合ってきた。箱いっぱいのSP盤が家にあり、ライトニン・ホプキンスやアルバート・キングを聴いていた父親に育てられた彼は、子供の頃からブルースが好きだった。

「“Red House”を聴いた瞬間に、音楽で食っていきたいと思ったんだ」

 両親の離婚の後、セントルイスで里親と暮らしていた彼は、芝刈りをして得た小遣いを貯めた。そして、祖父の楽器店でなけなしのお金をはたいて、初めてのギター、Normaを39ドルで購入したのである。「安物だったけど、私にとっては1957年製のStratocasterと同等の価値があった。宝物だったんだ」。

 ジェシー少年にとって、ギターを練習することは快感でしかなかった。「一度コツを掴むと、後は楽だったね」。養親にアンプを買ってもらい、地下室で練習に明け暮れた。「楽器を手に入れて、演奏することは幸福でしかなかった。片時も手放したくなかった」。高校時代もギターを弾き続け、エディ・ヘイゼルやカーティス・メイフィールドなど、様々なアーティストを吸収していった。「インプレッションズの“Keep on Pushing”をかけすぎて、レコードを駄目にしてしまったこともあったな」。卒業後、ジェシー・ジョンソンは、生まれ故郷であるイリノイ州ロックアイランドへと戻った。実父と一緒に暮らしながら、ロックのカバー・バンドに所属し、Yankee Clipperというクラブで演奏した。「1年に50週は演奏したよ。他のバンド・メンバーは、クラブの2階で暮らしていた」。街を訪れるロッカーたちとも演奏したと言う。「ジャーニーやAC/DCともジャムをした。彼らに毎回こう訊かれたよ。“君はなんでこんなところにいるんだ?”とね」。1981年の春、彼はその小さな街を離れることを決意した。

音楽業界への最初のステップ

 完全に無計画で電車に飛び乗ったジェシー・ジョンソンは、故郷から約580km離れた都会に降り立った。「ミネアポリスに行った唯一の理由は、ロスにまで行く運賃がなかったからだ」。白のフライングVギターとスーツケースを手に、家を飛び出してから30年が経った今、彼は笑いながら告白する。「誰ひとりとして知り合いがいなかった私は、YMCA(註:Young Men's Christian Association。キリスト教青年会)の部屋を借りたんだ」。幸運なことに、仕事のチャンスは意外と早く舞い込んだ。「偶然知り合った女性に、ちょっとしたモデルの仕事を紹介してもらったんだ。楽器店の広告とか、そういう仕事をやったね」。

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