新世紀エヴァンゲリオンを2012年のクリスマスに観た26歳当時の感想
私のオタク婚活の「プロフィールシート」を見た井上アコさんからコメントをいただいたので、新世紀エヴァンゲリオン(TVアニメ版/ビデオ版追加カット含む・旧劇)について思うところを書きます。
※長くなっちゃうので記事にしました。
当該の記事
https://note.mu/wawawwa/n/n5bf24b9ba1ee
いただいたコメント
>今更ですがここに関係ないコメントしかできてなかったと心苦しくw書き込み。エヴァ私も好きなんです!(これがアエルラ効果かー)しかし全く意味わかってません。新劇場版で今度こそちゃんと筋の通った収拾を期待してたけどQでやっぱり期待できなくなりましたw 中2心をそそるのだけは最高にうまい作品ですよね!Omataさんはどのくらいエヴァについて考察されてるのかなーって思って。て一言で済まない質問を・・すいません
正直未だ悶々とし続けているもので、テキストに起こす機会をいただけてありがたく思います。
実は過去に『カヲル君と俺』という同人誌を出していて、それの後記でちょっと吐き出したのですが、テキストにするのは初めてです。
(以下の画像13・14ページ目参照)
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=39116583
◆観た順番
TV版12話まで(※当時2007年くらい)
→ ヱヴァ序(劇場で)
→ ヱヴァ破(劇場で)
→ ヱヴァQ(劇場で)
→ TV版全話(2012年のクリスマスにやることがなかったため)
→ 旧劇場版(同上)
→ ヱヴァQ(劇場で)
→ 貞本版コミックス
→ TV版全話(BOX買った)
→ 旧劇場版(同上)
◆略歴と前提
2007年ごろは学生してて、新世紀エヴァンゲリオンへの精神分析的なアプローチは授業でちょくちょく出てきてました。
フロイト的解釈の新世紀エヴァンゲリオンをなんとなく聞きかじった状態で観てます。
12話で「あっこの作品好きすぎてドップリ行くな」と感じたので、観るのをやめました。
そしてうろ覚えの状態で新劇場版を観て、2012年のクリスマスにヒマだったからレンタルで全話観て、予想通りドップリハマりました。
一番好きなのは旧劇場版です。新劇場版は完結しないと何とも言えないなあという感想です。
公式の情報もあんまり知らないし、他の人の解釈もあんまり読んでないです。
そんな感じで書くので、戯言として読んでいただければ幸いです。(解釈違いの戦いを恐れる本能的な一文)
◆感想
※以降の感想で使う「大人」という言葉は、子供(血縁は関係なし)を「守る」という意識が無意識レベルで発生する人間のことをいいます。
旧劇場版を観終わった時点で、「自分の家族を持つのも楽しそうだなあ」が一番最初に出てきた感想でした。そして婚活へ続くんじゃ。
自分にとって、新世紀エヴァンゲリオンは「大人」不在の男と女の物語で、本当の主人公は碇シンジではなく、碇ゲンドウと碇ユイです。
碇ゲンドウが碇ユイと≪二人だけで永遠に一緒にいる≫可能性を模索した結果、人類補完計画を実行する。ものすごく荒く解釈するとそれだけの話。
碇シンジは、その二人の間に産まれた子供でありながら、碇ゲンドウと碇ユイが≪二人だけで永遠に一緒にいる≫ことを引き裂く≪他者≫です。綾波レイが、碇ユイのコピーっぽいのに碇シンジに惹かれていることから、そう断定してます。
碇シンジ自身はそのことを全く知ることなく、人類補完計画を発動させるキーマンとして、碇ゲンドウ(あるいは碇ユイ)の思惑に飲み込まれていきます。
新世紀エヴァンゲリオンという物語の主人公として描かれた碇シンジは、実際のところ主人公の器ではありません。
できない仕事をずっと押し付けられていて、それを「わかったよ、やりますよ」と受け止められるだけの器がない。でも、やらなくちゃいけない。そこでジレンマが産まれる(逃げたいのに、逃げられない)。
そのジレンマをずっとずっとずっと映像作品として見せられ続けるのが『新世紀エヴァンゲリオン』だと思ってます。
エヴァを観てイライラする人の理由の大半は、「主人公が全く成長しねえ!」だと推測します。だって本当は主人公じゃない人が主人公なんだもの。作り手側に、爽快な物語にする意図がない(はず)。これは新劇でも変わってなさそう。
碇シンジは、たくさんの人間に自分の気持ちを分かってもらえなくてスネてました。わかってくれてそうだった渚カヲルくんも、結局のところは≪他者≫でした。
人間はぜったいに≪他者≫を理解することができません。身長が1mm違う人間の視点でものを見ることができません。パクチーをおいしく感じる人もまずく感じる人もいます。同じ音楽を聴いてノリノリになっていても、ドーパミンの出方は人それぞれ異なります。双子は同じ人間ではありません。男は女がわかりません。(加持さんがそう言ってました。逆に、リツコさんもヤマアラシのジレンマとか似たようなこと言ってました。)
技術が進歩して、限りなく近い理解を得ることができたとしても、すべてにおいて分かり合うことなどできません。それが人間です。
それが大前提なんですが、その壁を取っ払って、≪他者≫という概念自体をなくし、「一つ」の意識の集合体になっちまおうぜ!俺がお前でお前が俺だぜ!という極端な考え方が「人類補完計画」です。
人類に足りない「ぜったいに≪他者≫を理解することができない」ことを補完しちゃうための強行策です。
人類が補完されると、「わかってほしいのに、わかってもらえない」ジレンマがなくなります。だって巨大な「一つ」の意識になっちゃうから。すべての人間が溶け合って混ざったスープになります。碇シンジという意識はあっても、他の誰かはいなくて、碇シンジの中のアスカや碇シンジの中のミサトさんという、超巨大な自分自身の中のものと対話することになります。この碇シンジも、アスカの中の碇シンジだったり、ミサトさんの中の碇シンジだったりします。でも全部同じ一つのものです。
そんで、全部同じ一つのものになっちゃえば、碇ゲンドウは初号機の中にいる碇ユイと≪永遠に一緒にいられる≫わけです。二人だけじゃなくなっちゃうけど、そこは妥協したんだと思います、ゲンドウが。ユイのことが好きだから。
TV版でも旧劇場版でも、人類補完計画は成功してしまいました。別々に感想を書きます。
>TV版のENDについて
碇シンジの自己啓発セミナーでした。
今まで散々ジレンマに陥っていた碇シンジくんが、あの碇シンジくんが、人類補完計画によって「一つ」の意識になったことにより、自分の立場について客観的な理解をして、みんなに「ようやくわかったのか!おめでとう!」って褒められる回です。
私はこの話はいい話だなーと思いました。人類補完計画が成功してしまったことは本気で腹が立つんですが(ゲンドウぶん殴りたい)、今までなんの説明もなしに新卒でブラック企業に無理やり就職させられて、「もう会社行きたくない…嫌だわ…もう無理マジ勘弁…でも俺じゃなきゃだめだって社長が言うんだ…行かなきゃ…」って言ってた碇シンジくんが、「そうか!この会社はブラックだけど社長の視点から世界を見れば社会貢献している俺マジで偉い!そして俺の意識次第では別の会社に転職することも可能!わかった!自発的に生きられる!」って、本当は自分がこの物語の主人公なんだから能動的に行動すれば自分に合った環境を得られた可能性を悟るんですよ。すごいじゃないですか!ようやくジレンマから脱した爽快感!!手遅れなんだけど!!何もかも手遅れなんだけどー!!
おわり
>旧劇版のENDについて
旧劇は、途中で映画を観ている人たちが映されたり、コスプレしたヒロインキャラクターが出てきたり、とにかく新世紀エヴァンゲリオンという作品の碇シンジというキャラクターに起こっていること(わかってほしいのに、わかってもらえないジレンマ)は3次元でも起こってるんですよ、ってことを観客に伝えている気がしました。
実際あらゆる場面で起こってますね。わかってもらえないから駄々をこねたり、わかってもらえないから歌にしたり、絵を描いたり、アニメ作ったり。いろいろ。いろいろやっても結局わからないのが人間なんですけど。
旧劇の「最後の敵は人間」というのも、わかり合えないということが中心の話だからなんだと思っています。
んで、碇ゲンドウが綾波レイの子宮に手を突っ込んで受胎させて、人類補完計画を遂行します。巨大化した綾波レイ(≒碇ユイ)は、その子宮に補完された人類を宿します。綾波レイ(≒碇ユイ)は碇シンジをまた自分の胎内に取り戻すわけです。
本来であれば碇ゲンドウも碇ユイの子宮に還るはずだったんでしょうが、初号機に頭を食いちぎられて死んだので、成されなかったと記憶してます。私はここのシーンとヱヴァQの巨大なユイみたいな人のシーンのおかげで、碇ユイという人間の考えが新劇場版でほんの少しでも描かれれば大満足なんだけどなあと思ってます。ユイが神になって、シンジを産みたかったんじゃないのか?という疑念が拭えないので。(残酷な天使のテーゼの歌詞は、ユイとシンジのことだと思ってます。)
そんで再び胎児となった碇シンジは、綾波レイ(≒碇ユイ)の胎内で、人類が補完されるルートがいいのか、それとも今まで通り他人と共存するのがいいのか、選択を迫られます。(この辺よくわからなかったのでWiki見ながら書いてる)
綾波レイ(≒碇ユイ)と融合することをやめた碇シンジは、今まで通りの現実に戻ってきます。しかし、現状はより絶望的になってて、映画冒頭でシコネタにしてしまった≪他者≫であるアスカしかいなくて、勢い余って首を絞めてしまいます。
せっかくまた産まれなおしたというのに、環境は良いものではなかった。碇シンジはその場から逃げたいのに、逃げられない。永久に他人とわかり合えないジレンマの再来。新世紀エヴァンゲリオンのテーゼが最後まで繰り返されます。
もう完全に吹っ切れるしかないのに、ずっと一人でぐるぐるしている碇シンジという人間と世界。そりゃ気持ち悪いよ!アスカもっとブチ切れていいよ!でもそれが新世紀エヴァンゲリオンなのだった。
おわり
◆まとめ
当時26歳だったわけですが、そこで出会った碇シンジは「よう自分!」って感じでした。世界に怯えて親を呪って生きている。そういうシンパシーがなければ21世紀の今この物語がリフレインされることもないんじゃないのかと思うんですが、むしろまだ「ヱヴァ(エヴァ)なう」な感じがします。てきとうに書いてるので、今の中学生が観てどう思うのか興味ある。
ヱヴァQを観て、14歳のまま固定された彼らを観て、主人公の器じゃない人間がエヴァンゲリオンに乗ることを「やめろ」というキャラクターが現れたのにもかかわらずエヴァにのる碇シンジを観て、ヱヴァはエヴァのままで、まだ答えが出ていない作品であることがはっきりしました。
新キャラクターの投入にも、周囲の年齢の加算にも、何回インパクトが起きても動じない『新世紀エヴァンゲリオン』の構造には驚いています。
結局どういう話なの?という問いへの自分なりの答えとしては、社会は碇シンジみたいな人間を包括していて、気持ち悪くても共存しなければならないということ(それに碇シンジは自発的に変わることが難しい環境に置かれている)。
正しい采配をすべきは、碇ゲンドウという本来「大人」たるべき人間だった。
しかし彼は、碇シンジの父親という事実を受け止めきれていなかった。かつ、道具として碇シンジを利用するなら、なぜ然るべき教育をしなかったのか疑問が残る。中途半端な状態にして、「大人」を放棄して我欲に突き進んだ。
新世紀エヴァンゲリオン内には「大人」はいない。(加持さんは「男」であることを選んだし、ミサトさんやリツコさんも「女」であることを選んだ)
⇒ウワー私は「大人」になってみたい!!
子供が成長する過程を間近で見てみたい!!たのしそう!!(冒頭の感想に戻る)
◆キャラクター(庵野版)について
碇シンジ:よう俺
碇ゲンドウ:おこだよ
碇ユイ:恐妻、たぶん
綾波レイ:ゲンドウ殴れ
冬月先生:ゲンドウ殴れ
ミサトさん:ゲンドウ殴れ
加持さん:ゲンドウ殴れ
赤城親子:ゲンドウ殴れ
渚カヲルくん:天使
アスカ:生きろ
一番かわいそうなキャラクターはアスカ。なぜかというと、他人の家の騒動に巻き込まれる大いなる≪他者≫の役割を与えられてしまったから。
一番ずるいキャラクターは加持さん。補完の対象となる前に任務で死に、永久に「女性とは向こう岸の存在だよ、我々にとってはね。」を実行した男だから。(エヴァの魂の定義がわかっていないんだけど、たぶんあのタイミングだと補完されてないと思う)
ミサトさんは母親になれなかった女。本当は、なりたかったと思う。
エヴァンゲリオンのパイロットたちが、「大人」になれないあの世界を、打破してくれることを願ってやみません。
今はこんな感じです!まだまだぐるぐるしているので、いずれ言うことが変わるかもしれませんが。
碇ゲンドウの前歯折れろ!!!
★おわり★
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