新潟大作戦

第5話


「全てはフィクションなんだよ、この世界も、何もかも」
そう言って横で笑う彼は、いつも突飛な発言で僕を困らせる。僕は大阪にある国立大の学生で、同じ陸上競技部に所属する先輩である彼の話を、同じく陸上競技部に所属する後輩と一緒に聞いている。そもそもどうしてこんな話になったかと言うと、いま僕と共に話を聞いている後輩が「試合で緊張しないためにはどうすれば良いですかね?」と聞いてきたことがきっかけだ。
 僕は元から試合で緊張するタイプではなかったし、この後輩は何を言っても納得しないことはこの1年で充分理解していたので、自分の実力を出すことだけを考えれば良い、緊張する人間は得てして実力以上の力を出したがる、と優等生じみた回答をした。僕なりに誠意を持って回答したつもりだったが、返ってきたのは「それが出来たら世話ないんすよねー」と言う不満げな返事だったので、僕は早々に話を打ち切るつもりで鞄を背負った。後輩はさらに「夢を見たいんすよ、僕は、ビッグドリーマーなんですよ、ビッグドリーマー」と続ける。
 これ以上考えるのが面倒だと思った僕は、そういえばそんな競走馬がいたな、と関係のない記憶を掘り起こしていた。ビッグドリーマー、去年4歳で引退したその馬は名前とは反して重賞未勝利のまま細々と引退したが、一部の競馬ジャンキーの間では人気の馬だった。その馬の引退レースにバイト代を全部注ぎ込んで見事に破産した友人のことを思い出し、夢を見たいのは結構だが、いざとなっても金だけは貸さないぞ、とだけ返し「金?どう言うことっすか?」とすっとんきょうな返事をする後輩を無視して、もう帰ろうかという頃合いだった。

「じゃあいっそ夢だと思えば良いんじゃないか?」
振り向くと、彼が立っていた。彼はにこやかな笑みを浮かべているが、僕にはその発言の真意はわからない。僕は正直この先輩のことをあまり良くわかっていない。たまにこうやって話に入ってきては突飛な発言をして、いつも気付いたら霧のように消えている。知っているのは年が上であることと、夜中にコンビニでバイトをしているらしい、という不確かな情報だけだ。
 僕は補講が始まりそうだったので、少し急いで帰りたい気持ちもあったが、発言の先も気になったので、どう言うことですか?と話を促すことにした。

「失敗が怖いんだろ?じゃあいっそのこと全部夢、幻だと思えば良いんだ。そうすれば何も怖く無い、実際に存在しないものを怖れることはできないだろう?」
彼はそう言った。全てはフィクションなんだよ、この世界も、何もかも。と続け、僕達の反応を伺うように顔を覗き込んできた。
 そんなことを本気で思えるなら苦労はしないな、と僕は思ったが、変なところで真面目な後輩はスマートフォンを取り出し「この世はフィクション、夢、幻」と口に出し、メモをとっているもんだから、僕も仕方なく同調して、この世はフィクション、と呟く。
 で、具体的にどうすれば良いんすか?と後輩がストレートに聞く、この後輩のそういうところは素直に羨ましいな、と僕は思う。

「なに、小説を書くのと同じさ、フィクションが始まる前には必ず言わなければならない決まり文句がある。」先輩はそう言い、一拍おいてこう続けた。

「この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません」



 ふとスタートの付近に目を移すと、チームメイトが黄色のバトンを手にとって笑っているのが見え、僕は今が試合中であることを思い出す。察するに彼は、ユニフォームとバトンの色が被ってしまったな、とでも考えているのだろうか。真実は分からないが、つられて僕も少し口角を上がる。
 先ほどまで思い出していたのは、つい2週間前の出来事だ。余談ではあるが「じゃあ僕、そういう書き出しで、先輩たちを主人公にした短編小説でも書いてみますよ!」なんて後輩が言って本当に書きあげてきた時は驚いたものだったが、昨日ホテルで読んでみると存外悪く無い仕上がりにも思えた。
 そういえばこの大会はネット中継があったなと思い出しカメラを探すと、電光掲示板の下にそれらしきカメラを見つけた。
 僕は画面の向こうで見ているはずのチームメイトに向かって、大きく、手を降る。


 スタートが近い、もうすぐ新潟の地で、号砲が鳴る。

              「新潟大作戦・終」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?