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地平で発進


 仕事に普段の生活が侵食されたくないなあ、というのは、普段の生活が仕事に食い込んでくることが嫌だというのと同じ意味で使っているかもしれないと風呂で思った。それは職種によるし、きちんとセパレートできることもある。一度しか通っていない救急車の音を聞いて「今日はよく救急車が通る日だ」と思ってしまうみたいに、音は全体を変えるような迫力がある。車から出る一番のその音はクラクションで、彼はよくクラクションを鳴らされるけれど、クラクションの音を聞くたび丹田が飛び上がるような感触に全然慣れない。クラクションという言葉の語源も全然知らない。鳴らされたり、どこかで鳴るのを聞くたびに、ちょっと舐めたように、ちょっと冷めたように、ちょっと斜めから見るように、ヘッ、というふうに思うようにしていたけれどその対処方法だとそれこそどんどん自分の内容が嫌なものになっていく気持ちがしてやりきれない。顔の色がどんどん泥みたいになっていく。
 アパホテルの梅田の前の路肩で彼は乗客を下ろした後書類を書いていた。車は横をギリギリなんとか通過した。そのあとタクシーが後方に来た。するとタクシーはパパパー、クラクションを三度叩き、パッシングも三度した。友人かと思ってすぐやめた。もう一度クラクションとパッシングだった。窓を開けて、本当に友人でないか確認した。光の反射で見えなかった。クラクションは今度は持続音になった。ファファファー、不思議なもので、この誰が鳴らしても同じ音が出るように作られているクラクションも、運転する人によって全然聞こえ方が違う、この人は、たとえば市役所で、市自体が狭いから広くしろと言うようなやつだと思う。なんだ、通れないのか、と彼は思って車を少し前にやると、ファファファーのままタクシーは通り過ぎていった。市職員にクレームを言いそうな顔をしていた。その横顔を見て、彼は自分の内容がとても嫌なものになっていくのがわかった。しばらくそこで、どうにかしないといけない、と思ってじっとした。同じ地平に立たないようにするにはどうしたらいいか、同じ地平に立たないことが平静を保つ一番の方法ではないし、じっと我慢することが、同じ地平に立たないことでもない、そもそも同じ人間だから同じ地平で暮らしているし、同じ地平というのは自分がただ作った気持ちだし、と彼は阿呆なのでそんなことをぐるぐる考えるだけだった。方法を思いつかないまま発進した。後ろからもう一台のタクシーが迫ってきた。後ろのタクシーはよぼよぼ発進する彼のタクシーに舌打ちみたいなクラクションを鳴らした。プッ。何かが弾け飛ぶ寸前みたいな気持ちになって、なにか彼は前方でなく、そのタクシーに向かってクラクションを鳴らしてみた。プッ。その音を聞いて、彼はずっと自分がただ我慢をしていたのだと思った。すると後ろのタクシーもそれに返す刀でプッ。彼ももう一度プッ。ドンキホーテの店内で鳴ってる音楽のリズムみたいになってる。プッ・プッ・プッ・プッ。と、深夜一時の梅田でクラクションが鳴りあっているのを、彼は頭がすっきりするような、楽しくなるような気持ちで見た。そうしていると、さらに後ろの乗用車はギャー、というようなクラクションを鳴らして彼たちを怒った。そういえば彼たちが全然動いていなかった。彼は急激に申し訳がなくなって、クラクションを鳴らさずに発進することにした。なにか解決したような気持ちだけが残った。夜は、鳥は眠っているんやろうか。その辺には鳥が全然いなかった。いなくなっていた? タクシーの黒は烏の黒。夜も音も溶け込む。

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