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無題


もう少しで25になる。
24年間生きてきて、最近いろんなことがどうでも良くなってきた。
1年前嫌だったことが、1ヶ月前嫌だったことが、昨日嫌だったことが、寝て起きるといつのまにか嫌じゃなくなっている。
もちろん嫌なことはいまだにたくさんあるんだけど、スルーできるようになる確率が上がってきた。
チケットが当たらないこととか、現場に行けないこととか、仕事でミスして怒られたとか、それなりに日々日々小さな悲しいこともあるんだけど、まあまあ寝たら忘れるようになってきた。
昔は泣いて暴れて家出してたのが嘘のようである。

10代の頃は親や学校の管理下に置かれることが嫌だったから早く大人になりたかった。
そして20を過ぎてからは歳を重ねる事は自分が醜く衰えていくようで、嫌でたまらなかった。
最近はそれさえも良い意味でどうでも良くなっているような気がする。
飯食って寝たらどうでも良くなっている。肌は確実に老化しているけど、別に物凄く病的にアンチエイジングに気を使おうとかも思わない。
年相応に、ちょうど良く、偏差値55くらいで歳を重ねたい。

"どうでもいい"とか"適当"って若い頃は無責任で嫌な言葉だなと思ってたんだけど、このくらいになってくると、魔法の言葉だな〜と思う。肩の力を抜いて頑張ってちょうど良いくらいになる。疲れない。
大人向けの女性誌なんかをを読むと同じようなことが書いてあって、それも昔は嘘っぱちだべ。と思っていたけど、本当にそうなのだと理解しつつある。

色んなものを手に入れたくて、でも手に入らなくて、周りを否定して傷つけて、そして自分自身も傷ついていたいた私は、こんな気持ちを知るよしもなかったし、当時は知らなくても良かったんだと思う。
全てはチェッカーズが代弁してくれているし。
傷つけたり傷つけられたりした時期を抜けて今の適当な私があって、一概には言えないけど、結構みんなそういうものなのかもしれない。

最近は知り合った人たちの中に年下の人たちが結構いて、こんないい歳の人間と仲良くしてくれてありがとう。と思うことも増えてきた。昔私と仲良くしてくれた年上のお姉さんたちもこんな気持ちだったんだろうか。

それにしても、ルッキズムと若さという資本を取り巻く現状は年々酷くなっているように見えて、現代の若い子たちはいろいろ大変そうに見える。
自分が蒼かった時代を見ているみたいで時々苦しくなるし、それ以上の大変さなんじゃないかな、と想像してしまう。
私が学生だった頃は高校の時に初めてインスタを触ったわけだけど、いまはみんなスマホを持ってて、TikTokを開けば顔の可愛い手足のすらりとした若い女の子たちが笑顔で踊っている。
そんなものに踊らされず、どうか私と知り合った年下の友人たちが、辛いことがあっても、ある種の適当さを持って自分の人生を健やかに過ごしてくれますように。と、勝手に願わずにはいられないのだ。
25になった時、30を過ぎた私と適当にお酒でも飲んで、一緒にご飯でも食べてくれれば最高だと思う。

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