20220725 月曜日

20220725 月曜日


今日は本当に特別なことが何もない日だった。しいて言えば果物入りプリンを食べた。父が買ってきてくれたおみやげの、瓶に入ったプリン。甘くて重たかったけど美味しかった。胃もたれしそうだったので黒酢のお湯割りを飲んだ。大体の胃もたれは黒酢のお湯割りか、Yogi TeaのStomach Easeで治るようになった。

昨日読んだ『ムーちゃんと手をつないで~自閉症の娘が教えてくれたこと~』なる漫画の続きを読んだ。絵柄が昔っぽいので昔の作品かと思っていたのだが、10年間の育児を終えて復帰した作者が数年前から描いている作品のようだ。つまり、完結しているかと思っていたのにまだ続いている作品ということだ!(連載中の漫画はもどかしいから読むのにハードルを感じる性格。)最新刊は5巻で、子育てはまだまだこれからと言っても良いような頃だった。心情の描き方がやけにリアリティのある話だな、と思って読んでいたら、作者の第一子は実際に自閉症を持つ子らしく、現実味のある話、ではなく、現実の話、だった。

ムーちゃんはかなり大きくなり、出来ることがたくさん増えた。読んでいる私までムーちゃんをかなり可愛く思うようになってきた。漫画とはいえ同じ町に住む子を眺めているような感覚である。ムーちゃんは現在、療育園と幼稚園に通っている。療育園ではムーちゃんみたいな感じの子たちと一緒に1日を過ごし、幼稚園ではいろんな子たちと一緒に1日を過ごす。療育園には保護者も同伴で、身の回りの世話を常に行う細かのだが、幼稚園は専任の担当者が1人ついてはいるものの保護者同伴ではないため、育てている側としては心配でたまらないだろうな。

この漫画には基本的にそこまで悪い人は出てこない。正確には、そこらへんを歩いているような赤の他人には偏見にまみれた最悪のクソババクソジジイが出てくるのだが、主人公である母親に直接関わる人間にはそこまで悪い人はいない。いたとしても、最初は両者間に軋轢があっても途中で和解する、という漫画的なパターンがある。世の中こんなに上手くいくのだろうか、とは思うけど、漫画だし、しかもこういう系の漫画で、過酷ながらも希望に向かって進み続ける作風なので、ただひたすらに最悪なままの人間というのは現れないのだろうな。

作中で主人公は流産をしてしまうのだが、通院している病院の主治医(普通にいい人)の妻が、幼稚園で一番意地の悪いムーちゃんを明らかに除け者にしようとしている人、という流れには面食らった。しかしそこで、その意地悪妻が意外にも観念的な良いことを言って、主人公の心は幾ばくか救われるのだが、主治医妻の意地が悪いのは、正確には意地が悪いというよりはド直球すぎて意地悪に見える人(やや発達障害)だったということが判明し、いろんな人がいていろんなことがあるのだなぁと思った。彼女の息子は発達のグレーゾーンにいるようで、しかし彼女はその事実をを認めることにどうしても抵抗があり、だからこそムーちゃんという存在を直視したくなくて、自分の世界から排除したがるようだった。この「自分の欠陥(倫理的には欠陥ではないとされているにせよ)を認めたくない」という感情は私にも少しは理解できるので、彼女の場合は認めたくないことが2つもあって苦しいだろうなぁ、と思った。


辛い思いをすれば(したからこそ)、人は人に優しくなれる、というのはかなりの幻想で、本当は辛い思いをしている人は高確率で心が荒んでいるか、泣いている。まれに本当に優しくなれる人もいるのだろうが、そういう人は辛いことの有無に関わらず元から優しい。しかし人間の価値は優しさでは決まらないし、そもそも人間の価値ってなんなんだろうな。通知表じゃないんだから、ってよく思う。私はよく、自分が一番辛いような気がしてしまう瞬間がある。もちろん世界に目を向けてみればそんなわけがないことなど頭では分かっているし、言葉に書き出していても、お前は馬鹿じゃないか、と思う。でも、人の辛さは通知表じゃない、とも思うのだ。少なくとも相対評価ではない。辛さにも人間の価値にも優劣はない。人には人の価値や辛さがある。

なんて、ただの聞こえの良い嘘っぱちでしかない。私は、失恋しただけのくせして自分が一番辛いような気持ちになっている人に、人の辛さは通知表じゃないよ、なんて言えるのだろうか。正直、そんなことで悩んでられて幸せですね、と思ってしまうだろう(言いはしないけど)。こういうことを考えているということはつまり、私もまた、私よりも困難な状況にいる人から、そんなことで悩んでられて幸せですね、と言われてもそれに対して何も返す術を持たない、ということになる。私は全然優しくなくて、辛い経験なんて少なければ少ないほど良いと思う。だからこの漫画の主人公にも辛い思いはしてほしくない。だけどこの人はこれからもずっと、人より辛い思いをするのだろう。その分強くなれるかどうかは、この人の元来持つ可能性に掛かっている。


5巻では主人公が意図せずして第二子を妊娠する。その子は結果的には流産してしまうのだが(産むと決めた後に)、その子を産むかどうかで主人公夫妻は心が千切れるほどに悩み葛藤する。特に健康上の問題がない夫婦だって不意の妊娠には悩み動揺するだろうし、もしかすれば産まないという選択をするかもしれない。でも、主人公夫妻の葛藤はその比ではなかった。ムーちゃんという手の掛かる子を育てながらもう一人を育てる余裕や自信がない、とか、そういう問題とは別の、全く違う次元でまで悩み検討しなければならない。この世には優生思想というものがあって、主人公はインターネットの匿名掲示板でそれに出会ってしまった。ムーちゃん的な子が不特定多数の人間から差別され忌み嫌われている様を見てしまったのだ。差別ってどういうことかって言うと、憎悪の対象とされる、ということらしい。「普通思いもしないよね。自分の子供に憎悪が向けられているなんて…」という台詞を読んで背筋が凍った。二人目を産むことは親のエゴだとか、下の子が健常な子だった場合に不幸になるとか、もっと根本的に酷い言葉とか、そういう言葉に晒され、そして自分の中にもまた同じような疑問が生まれて、悩み苦しまなければならない。二人目の子が健常な子でも、ムーちゃんに似た子でも、どちらでも悩み苦しむことになってしまう。子供が出来たのに、嬉しくて、その子に会いたいのに、でも喜ぶことが許されなくて、その子を産むことで社会から裁かれることになってしまうのだ。ただ愛する人の子をお腹に宿しただけなのに、なんて残酷なんだ、と思った。

きっと人間の倫理観は200年経っても変わらない。この世は差別と偏見に満ちている。でも、憎悪なんてなぁ。そこまでは正直考えていなかった。「思い違い」や「なんか嫌だなぁ」の大きいバージョンくらいのものかと思っていた。私も今では差別される側になってしまったのだろうか、と思うと想像するのも恐ろしい。車椅子で外を連れられている時、怖い雰囲気の人が近くにいるとヒヤヒヤする。いつ攻撃されてもこちらは反撃もできないし、逃げることもできない。だから出来るだけ目立たないように、出来るだけ普通の人に見えるようにしたいと願ってしまう。みっともない格好をしたくない。障害のある人だと思われたくない。だって私は障害ではなく病気のある人なのだから。でもそんな違いは外から見れば分からないだろう。私はなぜその違いにこだわるのだろうか。自分の心のどこかに、そちら側には行きたくない、という思いがあるからかもしれない。もしくは、自分の病気を正しく知って欲しい、という願いがあるからかもしれない。多分きっと、どっちもの要素を持った感情がここにあるのだと思う。私は普通になりたい。あんなにつまらないと思っていた「普通」が、今は憧れのように遠く、決して手に入らない採掘物のようだ。


10年前、ロンドンで差別を受けたことが何度かある。差別なんて最低最悪のものだけど、経験しておいて良かった、とも思っている。それはきっとごくごく軽い差別だったからで、殴られでもしたら一生あの国には行きたくなくなったのだろうけど。

差別を感じた事は2回ある。1年間いて2回の差別で済んだなんて私は幸運だった。一度目はロンドンの真ん中あたりを夕方に歩いていた時。少し裏側の道だったかもしれない。そう広くはない車1台が通るくらいの道で、車道を挟んで向こう側にいかにも現地のヤンキーといった感じの青年たちが何人か座っていた。不穏な空気を感じた私は足早にその場を立ち去ろうとしていたのだが、彼らに「チャイニーズ、チャイニーズ」と声を浴びせられた。第一に私は中国の出身ではないのだが、そんなことは関係なく、チャイニーズだろうがジャパニーズだろうが差別は差別である。あの瞬間は本当に怖くて、ヒュッとふるえ上がった背筋を引っ張るようにして彼らの前を通り過ぎた。もしあの時に道路の反対側を歩いていたら?彼らに接触されたら?もし殴られたりしていたら?考えると怖かったが、あの時はまだ若かったので、そこまで深く考えることなく出来事を忘れることが出来た。それからは海外旅行に行っても裏道を歩くことはしなかったし、かなりキレているようなフリをしてズンズン歩いたので、そのお陰かどのお陰かは分からないが、ヤンキーに絡まれることはなくなった。でもヤンキーに絡まれるって日本でも全然あることだろうけどな。人種を理由に絡まれるとこんなに違うとは。

2度目の差別はもう少し大したことなくて、だけど不快感はよっぽど強かった。あれはホームパーティーに行く前のことで、住んでいた家のすぐそこに小さくて素敵な酒屋さんがあったので、お土産にオシャレなワインでも持って行こうと初めて入店した時のことだった。ワインのことはさほど分からないため、雰囲気でラベルの綺麗な爽やかな感じのワインを選び、レジに持って行った。店員さんはブラックの男の人一人で、態度が憮然としており、全てを終えてお釣りを渡す時、まるで汚い物が目の前にあるかのように、私の手に小銭をジャラリと落とした。その時、あ、これは、と思った。この人が潔癖症とかそういうことは恐らくないだろう、となぜか分かった。明らかに私は今、汚い物として扱われた。そういう感覚だけが残った。別に何を言われたわけでも暴力を加えられたわけでもなかったが、心の中のもやはヤンキーに絡まれた時よりずっと大きかった。そしてあの時のもやは今も心に残っている。そうかぁ、私は汚い物なのかぁ…。あの人からしたら、私は汚くて触りたくない物。あれって今思えば、いわゆる「憎悪」の対象になったってことなんだろうか。アジア人というだけでなぁ…。


人は自分より弱いものを見下すことでなんとか威厳を保つ生き物だ。生物の連鎖の仕組み上そうなっている。でもそれが仕方のないことだとは思いたくない。ついでに言うと、ホワイト→ブラック→イエロー(人間の肌の色は3色で分けられるようなものではないが)、の順番は人類の歴史の中でたまたま生まれたもので、何かの戦いの中でその順番は十分に変わっていたかもしれない。今ってアジア人への差別が激化しているけど、誰かの鬱憤の掃き溜めになっていた人が追い詰められて、ついに耐えられなくなり、倫理観の輪を破ってまた次の標的を見付けてしまった、ということなんだろうなぁ。って報道でもそんなことはよく言われてるけど。

なぜか人種差別の話になってしまったけど、どんな差別も等しく最悪だ。なのに私は車椅子に乗っていると絶対に「普通の人」だと思われたくなる。そういえば以前、外出中に車椅子から降りて段差に座って休憩していたら、自転車に乗っていた若者がわざわざこちらに戻ってきて、私の顔などをじろじろと確認したあと、「普通の人っぽかった」と仲間に報告しに帰っていたことがあった。普通の人っぽくて悪かったね。突然に心に玉突き事故を起こされたような気持ちになる。外に出るだけでなんで傷付かないといけないんだろうか。主人公がムーちゃんと外に出る度に傷付いていた姿を思い出す。ムーちゃんが騒ぎ回る度に周りにペコペコと謝ってばかりの主人公。強くならなきゃ、と誓う主人公。私も強くならなきゃいけないのかな。強くなんてなりたくないのにな。強くならなくたって生きていける世界が良いに決まってる。いつかきっと普通に、と念じながら私は今日も病気と暮らしている。文字にするのも苦しいような言葉を脳裏によぎらせながら、何も考えないように、膨大な時間を潰す努力をしている。

出来るだけ笑わなきゃ。誰とも喋らずにいたらどんどん表情筋が衰えてしまう。テレビを観なかった期間は口角が下がって怒り顔になって危なかった。毎日が体力的に苦しいから、つい眉間に皺を寄せてしまう。病気のせいでブスになるなんて絶対に許せないから、少しでもなんとかしなきゃと足掻くけど、実際は朝の洗顔はトイレにある小さな手洗いシンクに顔を突っ込んで蛇口に顔を直接当てて水を掛けている。車椅子に乗っていると手を洗う台の高さすら限定される。毎朝やるせない苛立ちと共に朝が始まる。それでも絶対にブスにはなりたくないから意地でもシンクに顔を突っ込み続けるのだ、私は。何の話かわからなくなってしまった。


日記と言っておきながら2日かけてこの日記を書いている。ちなみに翌日である今日、26日は本当に何もない火曜日だった。朝起きてトイレに行って、体操をして、歯磨きをして顔を洗って、外で朝ごはんを食べて、部屋に戻ってベッドで横になって、テレビを観ながらお昼に冷凍のピザを食べて、スマホをいじって、トイレついでに自律神経が狂わないようにたまに庭に出て、体操でストレートネックを改善して、仮眠をして、ストレートネックが元に戻っていたので再び体操をして、晩ごはんを食べて、お風呂に入って、休憩しながら日記を書いている。基本的に毎日がこのリズムの繰り返しである。日記に書くことなんてないんだよなぁ、何か外側から情報を仕入れない限り。そうでもしないと、まるでこの部屋の外には何も世界が存在しないような気がしてきてしまう。だから毎日、動画を観てスマホを見て漫画を読む。それを人は暇人と呼ぶのだろうか。呼ぶのだろうな。

ふざけんじゃねえよ!

なぜかキレている。極長。日記のボリュームじゃねえよ。

終わる。


HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞