見出し画像

ランボー、ユング、ポロック

“永遠また見付かつた。何がだ? 永遠。
去つてしまつた海のことさあ太陽もろとも去つてしまつた。
見張番の魂よ、白状しようぜ空無な夜に就き燃ゆる日に就き。
人間共の配慮から、世間共通の逆上から、おまへはさつさと手を切つて飛んでゆくべし……
もとより希望があるものか、願ひの条があるものか黙つて黙つて勘忍して……
苦痛なんざあ覚悟の前。
繻子の肌した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ義務はすむといふものだやれやれといふ暇もなく。
また見付かつた。何がだ? 永遠。
去つてしまつた海のことさあ太陽もろとも去つてしまった。”
ー『地獄の季節』

アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 - 1891年11月10日)。
この永久不滅に輝きを放つ一編の詩の一節には、極めてユング的な、あるいは多くの著作でユングの語らんとしたことが、濃密度な言語活動で濃縮されていると感じる。
つまり抽象芸術、シュルレアリスムの先駆者として人間の「集合的無意識」の理論を語らんとしているかのようだ。

偉大な一人の詩人の遺した、このあまりにも美しい詩を理解するために、私的なユングに関する簡単な覚書を残す。

【フロイトとユングの決別点】
「性」に全ての起源を求めるフロイトの考えにカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)は疑問を抱き、1931年には袂を分かっている。
フロイトとユングにおいて主張に相違があるのは、とりわけ無意識領域に対する考え方である。(無意識=夢)
フロイトは、無意識は意識と対立的な関係にあり、個人の抑圧された記憶や衝動を押し込めた領域であるとする。
それに対して、ユングは、無意識は意識と調和的な関係にあり、意識とは別の自分が潜んでいる領域であるとする。
さらに、大きな理論の相違点として、フロイトが無意識の領域が個人の領域であるとするのに対して、ユングは、無意識の領域には「個人的無意識」と「集合的無意識」(原型)の二つの領域が存在すると主張していることが挙げられる。

【ユング心理学による夢理論】
夢の内容は、過去の出来事、感情状態、内的身体刺激、内的感覚刺激などをはじめ、自分に関わる全ての要素が影響を及ぼす。それらの要素は何らかの形に変容し、何かを象徴するような夢となる。夢は無意識から生まれるが、そのイメージは意識的な言葉や感覚に由来している。
従って夢の意味を解釈することにより、自分を再認識することになり「自分では気づいていなかった自分の姿」を発見できるのである。
夢解釈の際には、ユングは「拡充法」という方法を勧めている。それは、ある夢要素に対して、神話、昔話、 などあらゆる側面からの解釈を行い(原型論=イデア論)それらの要素を組み合わせ、総合して、夢の意味をくみ取る。

(1) 心の構造
心は「意識」つまり「個人的無意識(個人体験の総体)」と「普遍的無意識(人類共通体験の総体)」から構成されていると考えている。そのなかでも無意識の領域を重視し、それはあたかも大海(無意識)に浮かんだ小島(意識)という喩えのように、無意識の意義を認めた。
また、意識の中心を「自我」、無意識を含めた心全体の中心を「自己」とし、自我が心をコントロールすることの限界を考えた。フロイトが「イド(欲望)あるところにエゴ(自我)あらしめよ」と言い、自我の機能を重視したのに対し、ユングは自我が自己の意向を理解し従っていくことを重視した。

(2) タイプ論
ユングは人間の性格を8つタイプで理解しようとした。

(ア) 内向性 (introvertion)と外向性 (extrovertion)
まずはユングは内向性と外向性という2つのタイプに分けた。これは内向性格と外向性格という意味ではなく、心のエネルギーが内を向くか、外を向くかということである。

つまり「あるひとの関心や興味が外界の事物やひとに向けられ、それらとの関係や依存によって特徴づけられているとき、それを外向的と呼び、この逆にそのひとの関心が内界の主観的要因に重きをおいているときは内向的という」(河合隼雄)

この内向性と外向性を調べる方法として、ユングは「向性検査」(○×式,50 問)を作成している。

(イ) 4つの基本機能
次に心には4つの基本機能があると考えた。それは、合理機能(価値判断有)である「思考」「感情」と非合理機能(価値判断無)である「感覚」「直感」である。

例えば、ここにひとつの焼き物があるとする。これを見て「思考タイプ」は “この土の成分や釉薬から判断すると……” と理屈で反応し、「感情タイプ」は “これは好き……” と感情で反応し「感覚タイプ」は “色といい、肌触りといい……” と焼き物の表面の材質感に反応し「直感タイプ」は “これは唐九郎作に違いない……” と明確な根拠もなく決めつける。(河合隼雄)

「思考」が優位に発達した人は「感情」が未分化(劣等機能)となる。この未分化な機能により心に問題が生じてくると考える。
これが実際の人物であるとすれば、この人は最も有意な機能は「思考」であり、2 番目が「直観」、3 番目が「感覚」、そして最後に「感情」となり、「感覚」と「感情」は劣等機能となる。
このように実際の人間の機能はどちらかに傾いていて、第 1 から第 4 までの機能の順位をつけることができる。そして優位機能だけでは一面的な生き方となり、やがては破綻がくる。そこで劣等機能をいかに育てて自分に役立てることができるか(個性化の過程)というのが課題となる。

(ウ) 8タイプ
上記の4つの基本機能に、内向・外向を組み合わせて人間のタイプを8つに分けて捉えると、「外向思考型、外向感情型、外向感覚型、外向直感型、内向思考型、内向感情型、 内向感覚型、内向直感型」となる。さらにこれに第2優位機能を合わせると、計16 タイプとなる。

(3) コンプレックス (conplex)
コンプレックスとは、「感情によって色づけられた心的複合体」と定義されている。このコンプレックスという概念を作ったのはユングである。定義の理解が難しいので、もう少し分かりやすく言い換えれば、「ある特定の概念を中心に喜怒哀楽の感情を伴って連結している観念の総体」とでもいえる。
例えば過去にいじめの経験がある人は、いじめとつらい感情が結びついてコンプレックスとなり、いつまでも心の奥底でくすぶっている。 
その人がカウンセラーとなって、いじめの被害者のカウンセリングをするとなれば、コンプレックスが刺激されて冷静な判断・対応ができなくなる可能性が高い。
ユング心理学の観点からは、一番大きなコンプレックスは「自我」であるという。また、 解離性同一性障害の第二人格は、コンプレックスという観点から捉えることもできる。
ユングは人のコンプレックスを見いだすために「言語連想テスト」を作成した。名詞・動詞・形容詞などの単語を 100 語提示し、被験者の反応(内容・時間)を調べるものである。これを2 回実施し、1 回目で反応が遅れたもの、2 回目で反応が遅れたもの、 また 1 回目と異なる反応内容であったものがコンプレックスの手がかりとなる。

(4) 元型 (archetype)
1934年に書かれた論文『集合的無意識の元型について』からの引用。

「本質的な考え方や見方のなかで、ひとつとして歴史的前歴のないものはない。結局のところ、あらゆる考え方や見方の基礎には元型という、もとになる形式があるのであって、それは意識がいまだ思考を始める前、つまり(物質を)知覚した時点で姿を現すのである。」

人間は物質を知覚した時点で、すぐに思考を始められるわけではない。その前に「元型」なるものが姿を現し、しかもその後の思考に大きな影響をおよぼすのである。
では「元型」とは何か。

「意識されはしないが、それにもかかわらず活発に、つまり生きて待機しているもの (Bereitschaft)、形式、ちょうどプラトン的な意味でのイデアが、あらゆる人間のこころに存在し、思考・感情・行動に本能のようにあらかじめ形を与え、影響をおよぼしているのである。」

元型とは、普遍的無意識の中に存在し「人類に共通して存在するイメージの基のようなもの」であり、ユング心理学ではこれを有用な概念としている。元型とは、具体的なイメージそのものではなく、イメージの「表象可能性」である。
具体的な元型には、「ペルソナ」「影」「アニマ」「アニムス」「老賢者」「グレー ト・マザー」「永遠の少年」「マンダラ」「セルフ」などがある。

●「ペルソナ」=「仮面」を意味し、現実を生きる上での役割(教師、父親、リーダー)のことである。
●「影」=生きられない反面、排除されてきた部分。(例えば「男性性」を前面に出して生きてきた人にとっての影は「女性性」)。
●「アニマ」=男性の中の女性像。例えば、具体的なイメージでいえば,マリリン・モンローのような官能的な女性像もあれば、マリアのような神聖な女性像もある。
●「アニムス」=女性の中の男性像。この元型にとらわれた女性は戦う強い女性となる。
●「老賢者」=導く存在。イメージ・キリスト(一概化不可能)。『指輪物語』のガンダルフ。
●「グレート・マザー」=「大母」。イメージ・マリア(一概化不可能)。育みや豊穣の象徴。あるいは飲み込む存在。
●「永遠の少年」=大人にならない存在であるピーターパンのようなイメージであり、モラトリアム心性にも通じる。ピーターパン・シンドローム。
●「マンダラ」=サンスクリットで「全てを持つ」という意味で、「完全なるもの=神々の象徴」であり、円形の形象をとる。(大乗仏教、密教にまで遡るので研究必要)
●「セルフ」=「究極の元型」のことで具体的には、神、マンダラ、円、四角などのイメージとして表れる。

これらの元型は具体的なイメージとなって、夢や箱庭のなかの表現として登場することでクライエントは体験することができる。ユング派では、このイメージの象徴的な意味を解釈していくことに意味を見いだしている。

(5) 補償 (conpensation)
ユング心理学では、無意識の機能として「補償」を重視している。意識があまりにも一 面的すぎると、これを補うような働きが無意識に起こり、人を駆り立てる。例えば、全く正反対の性格の人と友達になったり、好きになって結婚したりするというのが該当する。  
また、夢や象徴がこのような働きを具体化させるのである。

(6) 共時性 (synchronicity)
共時性とは「意味ある偶然の一致」のことである。例えば、ある人が亡くなった時に、 同時刻にその人の夢を見るということはよく聞くが、これが該当する。これを意味ある偶然として納得する人は、ユング心理学に向いているといえるかもしれない。
狭義には、内的イメージと外的世界の出来事の意味ある一致をいう。

河合隼雄=精神分析医学の現場→
例えば、箱庭で 「出立」のテーマを表現した子どもが、まさにその日から登校しだした、という事例がある。しかしこれを因果的に捉えないことである。先の例を箱庭で「出立」のテーマを「子どもが表現したから、その日から登校しだした」と捉えてはいけない。

(7) 布置 (constellation)
布置とは「多くのものが一点に集められるか、関連づけられる現象」のことで、もとも とは、「星座」の意味である。河合隼雄は、布置を「内的外的な現象が一つのまとまりをもって」生じることとしている。共時性と似ている概念であるが、様々な事象が集まるのが「布置」であり、この意味では外的な事象だけが集まっても布置といえるが、偶然的に同時に複数の事象が起こるのが「共時性」といえる。

(8) 個性化 (individuation)・自己実現 (Self-actualization)の過程
個性化とは「本当の自分らしさを実現させていくいこと」という意味である。ユングによれば、人生の前半ですべきことは「学ぶこと」と「愛すること」である。しかし人生の後半では「その人らしさを追求していく」という。したがって、個性化は人生の後半の仕事である(実際には、20 代あるいは 10 代でこのテーマに取り組む人もいる)。
個性化とは単に「個性的になる」というのではなく、自分の人生や命を賭けた苦しみの過程であるともいえる。人は「個性化」の過程を歩むものであり、カウンセリングにおけるクライエントも同様である。

全てのユングの著作を精査する時間はなかったので、以上により個人蔵の中から「集合的無意識」を整理をした。行くとこまで行くと晩年の「錬金術」と「両性具有」まで行ってしまうが、それ故にユングはオカルティクに捉えられがちである。

万人に共通する典型的な視覚的心象の宝庫が存在する。それは神話的世界とも接続されている。その暗号化された意味の可読が精神分析者の責務である、と前提化することも可能だ。

後に主にドゥルーズ=ガタリの「欲望機械」や「生産機械」の思想と結合され、単一的な制欲に端を発するフロイト心理学のエディプス・コンプレックス(父、母、子)からの分離化が図られる。

以上の前提の上で、「芸術における集合的無意識の研究」 というのは行われて来た。
ここで思い出すのは二十世に活躍したアメリカ画家、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912年1月28日 - 1956年8月11日)である。ポロックはアクション・ペインティングの開祖である。

反権威主義者であり、アルコール中毒になるほどの破滅性を持った作家でもある。最終的には飲酒による交通事故で命を落とした。
ポロックは極めて乱雑で簡単なようなアクションによる絵画表現に見えて、絶対に真似できない作家である。

ポロックはアルコール中毒の回復のため、上記のようなユング心理学の下での治療=「精神分析用デッサン」を行い「集合無意識」へのシンパシーを感じた。
しかしながらユングの「原型」よりも、アーティストは「原型」における「シンボル」に立ち戻ることで、原初状態の民族にアプローチできると考えた。
そこでネイティヴ・アート(ネイティヴ・アメリカン)とシュルレアリスムへの接近をしていった。
つまりアルチュール・ランボーに原型を置くものへの接近である。

またポロックは神智学的な仲間からの影響もあったが、共産主義者との積極的な関わりもあり、アヴァンギャルドと過激な政治は一体である、という思想も持っていた。

基本的にシュルレアリストはフロイトの「無意識」の理論応用から思想に感化させている。
「精神分析用デッサン」から開始された一連のポロックのアクションは、後に芸術作品を語る時に、精神分析用語を多用することからも分かる。

ポロックはナホバ族のプリミティブ・アートに関心があり、それは『怒れる者たち』の「神話創作者」と語るロスコ(神話創作者を語る画家)と後にコミットするので、芸術に於ける、無意識=神話との接近は必ずある。

ポロックはアクション・ペインティングの先駆者であるが、結果的には無作為性の臨界点に自身の身体性の限界、つまり「いくら無作為に動こうが、そこには肉体という限界がある」という結果に失望した。つまり身体性の限界である。

これは彼の映像作品でも同じで、そこに「記録される」ということで、無作為に作為が生まれる、という限界を感じた。つまり描くふりの「ペテン」である、と。

“永遠また見付かつた。何がだ? 永遠。
去つてしまつた海のことさあ太陽もろとも去つてしまつた。”

非常に乱雑な私的テクストになったものの、もう一度、ランボーの詩の一節を振り返ってみよう。
これを「ペテン」とは絶対に呼べない。あるいはポロックの「記録される」限界をある点では超えている言語活動がある。また同時に夢や象徴のように、極めてユングの精神分析に極めて近しいのが見えてくる。
ランボーにはどこか悪童らしく粗暴にまで荒削りに集合体的無意識の原生林、イデア、原型そのものを書き付けたような衝動が、極めて生き生きと輝き続けている。
自己の無意識を我武者羅に叩きつけ、コンプレックスの先へ、先へと向かう。
まさに人類の共時性だ。
ユングを現代精神医学の上では、一種「時代遅れの産物」と片付けることは容易だが、ランボーをこれ程までに的確に読み解ける思想はないのではなかろうか。

“人間共の配慮から、世間共通の逆上から、おまへはさつさと手を切つて飛んでゆくべし……”

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?