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ほんとうの詩人

 物語とは一体、何なのであろうか。僕は考える。
 人間は先天的に物語を必要とする存在である。
 それは古代、人間が人間となったのは、ラスコー壁画に見出せるように宗教と芸術の誕生によるものであり、それが言語化された形が神話であったことからも理解できる。
 古代から我々、日本人もそんな物語を大切にしてきた。それは霊と深い関わりを持っているからだ。中沢新一は「物語」とは「モノの語り」であり、「モノ」とは「ツキモノ」や「モノノケ」といった人外の世界の存在である、という。

「合理性の外にあるなにかの活動を言い表そうとした言葉。だからそれを一言で霊と呼ぶことにすれば「物語」とは霊の顕現を呼びさましたり、霊の臨在のもとにおこなわれる言語活動」(『日本文学の大地』)

 古代人、多くの知識人や詩人は「大きな物語」をつくり、人々が社会や歴史、倫理といった大海の中、迷わないように霊の力を借りてきた。

 「大きな物語」とは何なのだろう。
 我々の歴史は、地水火風と動物、植物、それぞれの生と死が織り成す大宇宙との交響曲のようなものだ。
 それは時に激しい自然との戦いでもあった。巨大な流動する自然のエネルギーとの戦いである。我々の生活の中心である街や村の営みを守ること、つまり小宇宙の平和の維持である。それを脅かす天災や疫病といった死の運命は全て大宇宙からもたらされる。
 だからこそ我々は占星術や呪術を使い、人々と星々を、人間社会の小宇宙と、大いなる宇宙を絆で結び生きてきた。それは神話となり、伝説になり、昔話になった。そういったものが大切な「大きな物語」だと思う。

 しかし、現代人は「大きな物語」を持たない。そして知識人もまたそれをつくろうとしない。その為、大宇宙との絆は切れ、霊の力は弱体化し、細切れな情報だけをもとに我々は暮らさなければいけなくなってしまった。
 これはスピリチュアルな思想とも読めるが、外へ、外へと向かわず、外界へ目を向けることを放棄してしまった果てを意味する。
 鈴木大拙の言葉を借りれば「霊性」とは「精神」とは異なるとし、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて、一つであり、又それは一つでありながら二つでもある。二限的に相殺しあわず、相即相入する世界、精神と物質の裏にある、互いに矛盾をしながらも映発をする世界である、ということだ。

 今、インターネットやSNSにまがいものの真実を見出す人々の方が、禍々しい精神世界の病理に毒されている。
 そうすると「大きな物語」や個人の人生の隙間を、全く別種のグロテスクな物語(SNS)が埋めていこうとする現象が起こる。
 それは具体的に言えば、特定の国家や民族や人種に対する陰謀論であったり、それを鵜呑みにした排外主義思想だったりする。またナルシズム的な愛国心であったり、過激なヘイトスピーチの様なものまで生み出す。
 最も恐ろしいのは匿名の個人攻撃、私刑である。安易に人の人生を勝手に語り、無関心に殺す。誰かを死に追い込む。
 今、我々は倫理観の大きな分かれ道にいる。
 人間を捨てるか、否か。

 僕はそんな現代人の中から霊性が消えてゆき、エゴイズムに満ちた営みを行う社会を見ていると、ドイツの狂詩人として名高いフリードリヒ・ヘルダーリン(1770年3月20日 - 1843年6月6日)の言葉をふと思い出さずにはいられない。

「人類が凡ゆるエゴイズムを捨て去った時、はじめて理想の平等社会が実現するだろう。」

 このようなことは狂気的でほとほと現実不可能だが、実に崇高で正直な理想を持ち続ける人間を、仮に「詩人」と呼ぶことにしよう。
 そんな詩人の夢はきっと、グロテスクな物語を瓦解する力を持ち、マルクス経済理論の破綻も、高度資本主義経済の限界も超越して輝き続けるに違いない。
 我々の上に再び「大きな物語」が還ってくるだろう。しかし、同時にこの様な人間と霊性、あるいは地上と星々を結合させる夢は、必然的に地位や名誉、そして権力を至上とする一部の既得権益層と、それに追随する民衆によって嘲笑われ、迫害されるに違いない。

 その攻撃に純粋な詩人の心は傷付けられ、自ずから階級社会を脱し、隠棲を送るほかなくなる。あるいは社会から狂人の烙印を押され、ヘルダーリン然り、『神の裁きと訣別するため』=アントナン・アルトーのように強制的に精神病院に幽閉されるかもしれない。
 しかし、秩序(コスモス)を獲得せんがため、混沌(カオス)を容認して、霊性をその身体に宿し続け、真摯な物語を編み、まだ見ぬ遠方へと常に意識を集中させ、それを自らの運命として受け入れている者こそがほんとうの詩人であり、未来をつくる者だと僕は信じてやまないのだ。

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