やりたい→ありたい

学生時代、自分がやりたいことは「○○○だ」とずっと言ってきた。それは今でも変わっていない。※会社には秘匿。

だが、今月会社のキャリアデザインシートで
「将来自分が会社でやりたいこと」と記入する欄があり、ふと違和感を覚えた。

「やりたいこと」は点でしかないのではないか。会社でやりたいことはやっているが、それはあくまで「点」である。それに、やりたいことは、それに取組み、完遂することでいずれ自分の中で「やったこと」となってしまう。また新しい「やりたい」を追求するのかと。

じゃあ、自分はどうすべきかと考えたところ、「やりたい」を「ありたい姿」を追求することだととある人からヒントをもらった。

「ありたい姿」。それは自分の人生の中で不変なものとなり、1つの方向性となるだろう。
それに「やりたいこと」は時代の流れ、感受性と共に変わってくる。

※例えるなら、私は小学校の頃の夢はスクールカースト最下位であったくせに、「自衛隊」に入るだった。本物のゴジラ と会えるからという理由からだ(当時、ゴジラ は実在するものと思っていた)。当然、今は自衛隊は「やりたいこと」かと言われると、ゴジラ に即して答えるならそうではない。

時代の流れを見ると、トヨタ自動車の豊田社長も以下のように発言している。
「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」。

今の日本社会は「定年」まで面倒をみてくれるわけではない。会社が引いたルートにのって、自分の人生を終えることはもう難しいと、豊田社長の発言や12月の早期希望退職でむざむざと見せつけられた。「この会社で一生働きたい」と思って入社した方々は常に早期希望退職と現に向き合わされている。「やりたい」だけでは世間はかまってくれない。


経済学者の故・堺屋太一先生は1985年時点で「これからの社会は知価が求められる」と著書『知価革命』に記している。そして、現にそのような社会が到来している。
もう、物に価値をつける時代は終わりつつある。工業社会で経済成長を成し遂げてきた日本も行き詰まるだろう。
これからは会社のブランドに守られるのではなく、「やりたいこと」を「自分のありたい姿」につなげ、どれだけ知価をつけ、実行をしていくのかが問われているように思える。そして、その「ありたい姿」が自分の人生を決める上での軸となるだろう。

新型コロナウイルス、世界情勢の変化、オリンピック終了後の徐々に崩壊するであろう日本社会、その際、「何のために今まで自分は頑張ったろうか」と問いかけをしないような生き方、目指す姿を見つけていきたい。


※ん?僕の「ありたい姿?」少なくともその崩壊する社会を指を加えてただ、自分の生き方ばかり考えて傍観するのだけは嫌です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?