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後悔。早く知っておけばよかったShin Hangaと吉田博(2)

はじめに

 この記事は、表題の(1)の続きです。(1)を読まれてない方は最初にお読みください。

日本はじめての(?)女流水彩画家:吉田ふじを

 ここからは、線スケッチと吉田博という観点ではなく、吉田博の夫人、吉田ふじをについて、ご紹介します。

 女流画家につては、絵を描き始める以前は、なぜ名を成した女流画家が少ないのかと漠然と思っていた程度でした。

 しかし線スケッチを始めてから、日本画やジャポニスムに影響を受けた印象派の画家の中で何人かの女流画家に関心を持つようになりました。

 例えば、日本画では小倉遊亀、印象派の画家ではマネの弟子のベルト・モリゾや、日本の版画(新版画も含む)に影響を受けて素敵な版画作品も制作したメアリー・カサットです。その後他の女流画家にも目が行くようになりました。

 今回、吉田博を紹介するにあたり、吉田ふじをのことも言及しないのは片手落ちになると思い、前回の吉田博の記事の続きとして紹介します。

吉田ふじをの画歴

 安永幸⼀市著、「⼭と⽔の画家 吉⽥博」によれば、吉⽥ふじを(本名、藤遠)は、吉⽥博が養⼦に⼊った画家、吉⽥嘉三郎の三⼥で、姉妹のなかでも⼀番画才があり、⽗親の死のあと、12歳で当時の洋画の登⻯⾨、不同舎に⼊⾨しています。

 吉⽥博も、もちろんですが、あの⻘⽊繁も⼊⾨しており、⻘⽊の恋⼈、福⽥たねとは同級でした。興味深いのは、義兄博は、ふじをを、⼀⼈前の画家に育てるために、厳しく指導したことです。

 さらには、⼆⼈で4年間も「兄妹⼆⼈展」を催しながら、⽇本に戻ることなくアメリカ・ヨーロッパ、アフリカ写⽣旅⾏を続けたことです。
 明治という時代で、しかも絵を売りながらの写⽣旅⾏、とてもやわな気⼒、体⼒ではもたないはずです。明治⼈のスケールの⼤きさを、このようなところでも感じさせられます。

 帰国後、⼆⼈は結婚しますが、結婚してもこれまでの、義妹を厳しく鍛える姿勢は変わらず、「おめかしや夫の世話など、妻らしい事は⼀切許さず、絵の勉強の続⾏を厳しく⾔い渡し励⾏させていた」といいます。

 その成果として、ふじをは、四年続けて、官展(⽂部省美術展)に⼊選します。この夫の姿勢は、すごいことですね。現代でもできそうでできないことだと思います。

 帰国後のもう⼀つのエピソードとして、安永⽒は、夏⽬漱⽯と森鷗外にまつわる話を紹介しています。

 ⼀つは、「三四郎」の中で、美禰⼦と三四郎が、帰国後の博とふじをの絵が出展されている展覧会に出かけ、三四郎が、姓が同じのため、兄妹の絵とは気付かず、美禰⼦に指摘される場⾯。

 もう⼀つは、鷗外がこの展覧会で、偶然博と知り合いになり、以後、親交を結んだというエピソードです。

 以前から、漱⽯、鷗外が美術によせる強い思いを、折に触れ彼らの著書から感じてきましたが、吉⽥博、ふじをとの接点は予想外でした。

 吉⽥夫妻は、⼦宝に恵まれましたが、不幸にも最初の⼥の⼦は、3歳でなくなり、⻑男は、誕⽣後1年で⾼熱に⾒舞われ、⾜が⿇痺するという不幸が襲います。

 そのためかどうか、「ふじを」は、その後、表舞台には現れないようですが、晩年、「1980年に個展を⾏った」ということを聞いて、なぜかほっとしました。

最後に

 吉田ふじをの作品のフリー画像を探しましたが、見つからなかったので、2009年に鷹市美術ギャラリーで行われた「世界をめぐる吉田家4代の画家たち」展のポスターに福岡市美術館蔵の「ベニス」の絵がありましたので下記PDF画像でご覧ください。

なお、下記の記事の中にも吉田博のベニスの作品とともに紹介されています。

 明らかに、この時期は、夫の吉田博と似た作風の絵ですが、夫の死後、晩年にはまったく異なる作風の絵を制作し、発表したのは、どうしても夫の影に隠れてしまう女流画家ふじをの無言の主張を感じるのは私だけでしょうか?

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