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デュエマ史

 小学校2年生の時、友達に誘われて始めたのがきっかけ。
 カードゲームは元々ポケモンカードで遊んでいたが、イラストやカード全体のデザインがカッコよくて惹かれた。
 ルールは口伝だし情報収集はコロコロでしかできなかったので、先行後攻は裏マナで決めるし、マナ色は無しだし、シールドセイバーは一体でワールドブレイクを止められた。持ってるカードの枚数が40枚に届いてなくても、デッキの中のレアカードだけスリーブに入っててどこにあるのか丸わかりでも普通に遊んだ。友達の家や公園で日が暮れるまで遊んだ。小学校が世界の全てだったので、自分しか持っていなかった殲滅の覚醒者 ディアボロスΖは最強だった。

 中学校でもデュエマは通じた。パズドラが覇権を握る中、ソシャゲなんてそっちのけで毎日のように学校帰りに駅前のデュエルスペースで友達と遊んだ。テスト期間でも関係なかった。友達と勉強して帰る!なんて親に言って、デュエマに勤しんだ。
 初めて自分で箱買いした時に当たった戦慄の頂 ベートーベンが切り札だった。絶対傷付けたくなかったのでローダーに入れていた。スリーブ39枚とローダー1枚のデッキ。ある時友達にそれはちょっとズルくね?と指摘され、まぁ確かに…と思ったのでローダー40枚デッキにした。シャッフルが死ぬほど大変だった。

 高校でもデュエマをしていた。この辺でようやくシールドセイバーは盾1枚しか守れないことやマナ色の存在を知った。でもマナ色は今で言うデュエプレルールで、多色カードは1枚で複数の文明を生み出せた。
 そしてプロキシというものを覚えた。欲しいカードがあるけどお金が無い時、コピーすればええやんということに気付いた。皆のデッキのレベルが一段階上がった。自分は自引きした禁断と大量のプロキシで組んだ禁断オールデリートを握っていた。友達はガチロボや連ドラを組んでいた。誰も環境デッキなんて知らなかった。

 大学受験を期に、デュエマから離れることになった。そして大学でもデュエマをやっている友達はおらず、数年カードを触らない期間が続き、引退状態だった。
 しかしある時、YouTubeでデュエマの動画が流れてきた。某工房のオリパ開封動画である。そこから少しずつデュエマ関連の動画を見るようになり、今のデュエマや所謂"環境"というものを知った。GR召喚という訳の分からないギミックが登場していたが、超次元の衝撃を経験していたのでなんとか理解できた。
 1年くらいは動画を見るだけだった。しかしある時紹介されていたハイオリーダファイブスターというデッキで、好きなカードであるサファイアウィズダムがフィニッシャーとして活躍していると知った。
 とりあえずそのデッキを組むことにしたが、カードは基本自引きする派だったためパーツを集めるのにかなり時間がかかった。再録の無かったファイブスターは2000円も出して買ったりした。ただそんなことをしている間に環境は変わり、デッキが完成する前にハイオリーダファイブスターは完全に過去のものとなっていた。そのため現役復帰には至らなかった。

 そんな感じで動画は見るけどプレイはしないみたいな日が続いたのだが、大学2年か3年の頃転機が訪れる。オリジナルフォーマットの登場とリモートデュエマの流行である。どんな状況からでも1ターンで死ねるなんでもありの世紀末デュエマよりシーソーゲームを好む自分にはオリジナルが合っていたし、リモートは対戦相手がいないという問題と潔癖だからカードを触られたくないという難題を一気に解決してくれた。これはもうやるしかないと思い、蒼龍革命を片手に復帰した。

 そして社会人になり、たまにリモートCSに参加するくらいだったのだが、GPが開催されるということで思い切ってリアルイベントに参加してみることにした。自分は環境トップを握るより、好きなカードをメインに据えたファンデッキで戦うプレイスタイルだったので、デッキ選択に迷いはなかった。
 
 今まで配信を見るだけだった大型大会に参加するというのは、それだけでもう楽しかったし嬉しかった。さらに目標を遥かに上回る戦績を収め、この大会はとても大切な思い出になった。
 そしてこの大会結果から多くの人から話しかけてもらったり、遊んでもらえるようになった。デュエマをやっていなければ出会うことすらなかった年齢も出身も違う人と交流ができるというのは、本当に素晴らしいことだと思う。

 そしてこれからもデュエマをやり続け、老人ホームで紙をシバきながら「ワシが若い頃はサガ環境のGPをゼニスで無双してのぉ…」て同じ話何回もするジジイになるのが夢。

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