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第3回 池上亜佐佳・山本亜美 デュオリサイタル

二十五絃箏と十七絃箏。どちらも伝統楽器としての箏(十三絃)の範疇には入っているものの、西洋音楽が入ってきた明治以降の、さらにいうなら二十五絃箏は昭和期に生まれた楽器だから、それらを使った作品を演奏することは、伝統音楽の新たな地平を開拓する行為に他ならない。ところがそういったいわば“新しい作品”は、「現代音楽」とカテゴライズされると同時に「難解でよくわからない」というレッテルが貼られてしまう。確かにこれまでの常識や概念を打ち破って、思わぬ音遣いや奏法を盛り込んだ作品も数多いが、かといってそんな安直な決めつけは、せっかく生まれた作品のほんの一部しか見ていない、実に勿体ないことをしているような気がする。

3回目となる池上亜佐佳・山本亜美のデュオリサイタルを聴いて、その演奏を反芻するうちに、そんなことを考えるようになった。

今回、趣向として面白かったのは、新進作曲家2名(森亜紀・桑原ゆう)と2名の巨匠(伊福部昭・廣瀬量平)の作品でプログラムを構成したこと。前者による初演作品『二十五絃と十七絃のための「津軽」』とこのデュオ用に改訂された『夢恋ひ怪談』は冒頭に書いたように「新たな地平」に架ける橋とも言える作品だし。それぞれのソロによる後者の2曲は、そのための道しるべになった作品だとも言えるからだ。

一曲目はデュオで委嘱作品の『二十五絃と十七絃のための「津軽」』。太宰治の『津軽』から着想を得て「太宰が語る“言葉”を“音”で表現してみたい」(作曲者コメントから引用)というこの作品。メランコリックなフレーズから始まり、いくつかのフレーズやリズムが入れ替わりつつ曲は進行して行く。こうした動きは太宰が故郷を巡る道行きを表現しているのだろう。残念なことに筆者は『津軽』を読んでいないので、作曲者の意図がどこまで色濃く出ているかはわかりかねる(これは筆者の怠慢)ので、言い訳のようだが改めて『津軽』を読んで出直そうと思っている次第。ともあれ、二十五絃の華やいだ音色に加えて、十七絃が打ちだす多彩なリズムがまた愉しい。この辺のセンスはまさに現代を生きる作曲者に依るものだろう。

 続いてはそれぞれのソロ。どちらも自身の初リサイタルで演奏した作品だというが、肝心のそれらを聴いているわけではないので、成長ぶりを論じることはできないが、一瞬の隙も見せなかったこの夜の演奏には、それぞれの充実した“現在”を垣間見た気がした。

山本亜美

山本の『胡哦』は、作曲者・伊福部昭の『聖なる泉』(映画『モスラ対ゴジラ』より)のフレーズから展開していく作品。絃の上を駆け回る指が何層にも重なるイメージを紡ぎ出していく。疾走しているかと思えば、時折余韻だけを残して急停止しする。そのメリハリもまた印象的だった。

池上亜佐佳

池上は八橋検校の『みだれ』をもとにした廣瀬量平作曲『十七絃独奏のための「みだれ」による変容』。1980年に菊池悌子氏によって初演されたこの曲は、まさに古典と当時を繋ぐものだったはずだが、そこから40年以上隔てたこの日、池上が演奏することで、更にこれからに伸びゆく作品になっている訳だ。池上の十七絃は疾走感に溢れ、弱音からフォルテまでの幅広さや、爪遣いによる様々な音色。そして余韻だけで聴かせる無音部分など、持ちうる要素を存分に使った演奏に心が浮き立つ思いをした。

効果的な照明も印象的だった

休憩を挟み再びデュオでの『夢恋ひ怪談』は、「怪談」をキーワードに選んだテキストの語りや歌が入る桑原ゆうの作品。2面の箏の音色に加わる二人の声は、箏が拡げた音色の敷物を引き上げ吊り上げて、立体的なオブジェとしていく。そんな心象が浮かび上がった。音として呼応する言葉から朗読。さらに謡曲調といろいろに発せられる声が、さらにそのオブジェの姿を変えていく。演奏する二人の高い技量を証明する作品だったと思う。

さてここで冒頭の命題に戻りたい。この日は紛れもなく新しい伝統楽器による現代音楽の演奏会という事になるが、それに囚われるのは勿体ない。レッテルを越えて前のめりに耳を傾ければ奥の方ではあるが美しさや面白さはきっと見えてくるはずだ。池上と山本が切り拓く“これから”を見守っていきたいと思うと同時に、さらに広く聴かれるようになることを願ってやまない。
(10月30日 杉並公会堂小ホール)


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