わざわざROM専ではなくなる意味って。
注意 若干下ネタ。ブラウザバック。
ネットでわざわざ投稿側に回る意味、脱rom専する意義。
それは、よく考えてきた。
ずっとROM専だったから。
好きな動画とか音楽にコメントを残したりしないし、質問箱とかリクエストに一言も書いたことがない、趣味アカウントも作ったことがない。
誰かのファンになってずっと追うとか、動画も生放送も、その他ライブグッズ全てこなすみたいなこと一回もない。
いいねもフォローも全くしない。フォロバとかいいね返しとかも、全くする気になれない。わざわざコメントする気持ちがよくわからなかった。
それはただ黙って、好きなものを好きなだけ取り入れることができるのがネットで、無駄な刺激や争いに参加したくないという思い込みからきていた。
事実、今はいろんな場所で発信側とそれ受け取る側という立場が、
明確に形成されている。
私はそのどちらにもなりたくなかったし、ネットでも一人でいたかった。
小学生の頃からずっとROM専だった。
好きなコンテンツがあっても、わざわざフォローやいいねをしないし、
見たい時にその人を検索して、ばっと見る感じが好きだった。
『自分』としてそのコンテンツに交わるっていうのが嫌で、ただの透明人間として好きなものを見ていたかった。
自分の得たいもののために、わざわざ人と交流したりとかがめんどくさい性分だ。その過程をすっ飛ばしたかった。
人というよりも、好きな情報として見ていて、頭の中にどんどんお気に入りの情報が積み重なるのが好きだった。
現実では人との繋がりだとか、承認欲求だとかよく言われるが、
自分は何かそれとは違う価値観を持ってた。
SNSは『繋がり』ではなくて、誰でも好き勝手できる場だと思ってた。
現実で何度も繋がり(空気読み、グループ、組織)を求められる空間はあったのではないか?ネットも同じくらいあると思うけど。どっちもどっちだけど。
こういうと語弊がありまくりだが、自分はそう思ってた。
昔の掲示板とか投稿サイトで、個々が勝手に好きなことやって、そこにたくさん人が集まって、おもしれー楽しーってなってるのが、好きだったのかもしれない。
今の、『誰が』『何を』『やる』のを見て、『その人(もの)』が好きな人が集まってる感じ。嫌いではないが、
やっぱり、なんか好き勝手してて、個よりも人、人よりも情報、その場の雰囲気みたいな情緒があるネットが好きだった。
だから私もそれを見る側として、その雰囲気を楽しんでいた。
でも現実もネットも移り変わって、時代も変わった。元号も変わった。
そういや元号変わったのも、もう六年前か。はえー。
なんだろう。どんどん人やものが繊細に、名付け、分類化されて、明確な線引きがされてくのを、時間の流れとともに感じた。
線引きは何かしらの優しさ(という名の配慮)でもあるのだろうけど、それは同時に一抹の不安や孤独、退屈を感じる。
オタクの中にも、いろんな名をつけて、そう呼ばれるようになったり。
元々あったのものが、どんどん個の箱に入ってく感じ。
だから。私もその時代の流れとともに、歳をとって、
rom専でなく、自分が『何』なのかみたいな思想に陥ってきた。
ただの見ている側では、いさせねえよみたいな全体の傾向の中で、そう思った。
ただのいちではなく、一緒にわちゃわちゃするものではなく、
一人一人がなんか『意義』を持ち始めちゃった感があって。
今や、どの分野でも受け取り側の方が優位みたいな雰囲気があって。
誰もが自分のために生きたい世の中のはずなのに、表面上はみんな『他人のために!』『あなたのために!』って気取らなきゃ、体裁を整えなきゃ、発信することすらできない同調圧力みたいな風潮が出てて。
見事に私もその渦の中に入ってるのだと思う。渦の外にいたかった。
その渦で、どんな目的、感情、意義を持つかって、もちろん人によって違うんだろうけど。
私はその渦の中でも、やっぱり、
『誰が』と『何でもいい』って気持ちがせめぎ合ってる。
『誰が』っていう見事な区分けと立ち位置、配慮ある共存。
『何でもいい』っていう雰囲気重視の、いい意味でも悪い意味でも分別ない、あの頃のカオス。
どっちも望んでるし、どっちにもなりたいし、なりたくない。
私個人は、勝手に好きなことやってたい、一人で好きなことやって、それを他人には見られたい。
でも見られる上で、『誰が』とか『何を』ってのは全く持ちたくなくて、感じたくなくて、むしろそれが嫌で。
『誰が』ってのが出てきた時点で、もうそこでめんどくさく感じてしまう。これは今の社会の風潮だけでなく、自分個人として元々そういう気質なのだと思う。
自分のやってることって、正味誰でもできる、たくさん代わりがいるって、現実でもよく思ってて。
でもそれに反する、『自分が』どうありたい、なりたいってのも奥底にあって。
だから今のところは、ネットで自分の意の向くままに、好きなことして、好きなこと見て、自分でいたいって思ってて。
そこでは必要最低限のリスク程度に済ませたい。
今の時代の『個』の感想や意見、価値観が少し怖いとまで感じる。恐ろしい。
発信者に対する、受け取り側のパワーバランスが傾きがちに見えて、
もう昔のような、みんなで得たグルーヴ感がない。
だから、SNSのフォローやいいねの可視化仕組みすら、なんかめんどくせえものだと、個人的には思ってしまうことがある。それがあるからこそ、面白い文化もあるが。
『素の自分のままでいたい、着飾らない身内ノリ、好きなこと自分勝手にやっていたい、みんな勝手に楽しんでる。楽しければいいの精神で、ある意味分別がないカオスの楽園』を実現できるのがネットだと思ってたけど、
今のネットでは、いろんな枠があって、そこに個々の責任感や配慮が伴ってる気がして、発信側はちょっとだけ生き苦しく、逆に視聴者側はちょっと意思が自分勝手になりやすい傾向にある。
だから私は今も、ROM専でいることが、一番生きやすいのだろうが、
今はそれを上回る『自分勝手になりたい』っていう欲望がある。
ネットも現実も関係なく、ただ。
現実でもネットでも生きづらくて、どっちも辛くて、結局人の目気にしてばっかで、他人軸で生きてて、自分じゃいれなくて、他人として生きてた。
ずっと我慢してた。耐えてた。
今思うのが、
『もう耐えられない』
我慢できない、耐えられない、誰か受け入れて、発散させてくれ。
発散したいけど、『誰』もいてほしくなくて、発散するところを知ってる人間たちに見られたくなくて。
でも知らなくて都合のいい人間たちには、見られたくて。(=それはいい意味でも悪い意味でも、都合のいい存在だから)
見られることで、自分の心に戒めをつけたくて。
仮想の誰かに見られることで得る高揚感ってのは、たまらないもので。
誰でもいいんだよな。そもそも人間じゃなくてもよくて。
概念に受け入れられたくて。
この書き方だと、マジで妄想でオナニーしてる中年おじさんみたいな感じになっちゃうんだけど。
いや実際、自分って案外そんな人間なんだ。
妄想でシコってる引きこもりのおっさん的な面が確かにある。
友愛とか恋愛とかに合致するものじゃない、絶対合致しない。
そういうものなんだよ。
性だ。ただ受け入れられたい。
ネット上では、欲の化身的な面が多い。
これは他の人らも、同じで。
本当に少しだけ、そういう傾向あると思う。
臆病で怠惰で、でも刺激は欲しくて、一人で欲に従ってる。
その欲の中に人間的存在は確かにいるけど、現実は嫌いで、
頭の中の都合のいいヒト(概念)が好きなだけ。
欲と好奇心が時に、臆病さに勝る時もある。
自分勝手にしたいって欲はあるけど、それを『誰か』に渡したり、受け取る勇気もなくて、臆病で、閉じこもってるんだけど、
一人でずっと引きこもってるうちに耐えられなくなって、妄想やネットの世界で、相手を見つけて、何一つリスクや刺激のない範囲内で、ぶちまけるっていう。
ぶちまける時が一番清々しい。
書いてる時は一番きもちい。
ぶちまけた後の取り扱いがめんどい。
そのぶちまけたものが、いざ他人に反応されたりすると、
今までの妄想が、いきなり『現実』化して。
その現実の刺激や不安に耐えられなくて、心がブワッとなって、
心の奥底では逆上して。
その溢れそうな感情を決して『誰か』にぶつける、向ける勇気も、傲慢さも、自分勝手さもなくて、人間不信で、誰のことも信じてなくて、また一人になって、その繰り返し。
くそーって思いながら、年中自慰してるおじさんなのかな。
そのくそーって気持ちの根本は、大体悔しいとか苦しい、悲しい、怒り、寂しい、辛いとか大体負の感情で、嬉しいもんじゃあない。
なんか湧き上がるものもなくて、向上心もなくて、自己実現のためにしてるわけではなくて、何か違うもので。
溜まった情緒と思考の爆発を、一人で抱えきれなくって、その結果なのかな。
むしろその負の感情が、楽しくて、気持ちよくて、興奮するってのもある。
私の行動原理は、大体負の側面から来ている。
不健全な時こそ、その衝動だとか行動力は出やすくて、それが自分を救う。
自分の内面世界は、そんなもんだと思う。多分。
でも最近は、もうそんな繰り返しより、
自分に正直になろうって気持ちが、欲に従う気持ちが、強い。
『欲に従う』ってある意味、強力なエネルギーで、人や自分を傷つけかねない、癒しかねない感情なんだけど。
それでも、今の私はもう『耐えられない』
現実に耐えられない。生きたくない、生きたい。
どうにもならない。
最後の救済措置として、私の奥底にそういう感情があるんだと思う。
今まで散々、そういう感情に怯え、それの恐ろしさを実感してきたから、
自分がまさに『そういうのを向ける側』(発信する側)になることに対しての、情緒はある程度形成されてるんだろうけど、
はて、人間というものはよくわからない。
どれだけ善の人間でも、急に心は変わるもので、一つの刺激で、その人の奥底を爆発させる出来事(言葉)なんてありふれてるんだ。
そんなリスクまみれの、空間やコミュニティに足を踏み入れるなんて、
私にとっては心の自殺行為も同然なのだが、今は、興奮してむしろ、足を踏み入れようとしてる。ちょっとイカれてる状態(個人的には)。
だからnoteとかやってんだろうけど。
リスクをとって、生を全うしたい、勝手に生きたい。
欲に従いたい。そういう欲が無意識下で蠢いている。
誰のためでもなく、誰が見ているだとか、誰がいる、何をどうしたとかも、全く目にうつらず。
自分だけがいて、自分が主人で、己の欲のみに従いたい衝動で生きたい。
リスクやめんどくささを伴ってでも、身を滅ぼしてもいいから、
一瞬でもいいから、『自分』でいたい。
自分でいていいのだと、全てを肯定したい。=躁状態なのだろうけど。
やはり私にとって、二次元(ネット、文字、概念)は、
私を受け入れてくれる場所で、安全基地で、概念的に自分が許された気になれる、都合のいい止まり木なのだと思う。
都合のいい止まり木とは思ってるけど、ネットも所詮現実の集まりだから、それ(自分勝手でいること)が全て許されることなんて全くなくて。
文字だろうが、概念だろうが、結局その先には人間が存在していて。
ネットも現実だから。何かを発する限り、それに人の感情や価値観はずーっと伴ってきて、くそめんどくて。
でも今のところ、ネットが一番、『自分』で入れる場所で。
もちろん、他者に気を使ったり、誰も傷つけたくないって常に思ってるけど。
その中で得る葛藤はたくさんたくさんたくさん、あるけど。
今はそうする。
もし明日死ぬんだと思ったら、そんなこと気にしてられないみたいな。
意の向くままに生きてみる。
自分で自分を支配しないし、制限しない。
そこで多分、勝手にすごい気分悪くなったり、鬱な気分や、人間のめんどくささを感じるのだろうけど。
リスクをとって生きている限り、それはしょうがない。
そういうものだ。
自分が自由に生きることは、同時に他者の自由も肯定しなければいけない。
自分(他者)だけ自由にとかは、もう無理なんだ。
何かを発する側になった限り、そこには一貫性と責任感を持っていたい。
しかしその責任感に押しつぶされたくはない、他者の尻に敷かれたくない。
自分勝手でいるためには、必ず何かしら(他者=責任、感情、調和、対立とか)はついてくるし、それをうまく調和してくしかない。
自分勝手でいたいのに、現実や他者の視線に押しつぶされるなんて、本末転倒だし、せめて自分でいる強さを身につけたい。
うまく折衷してって、自分を生きてたい。
第一に自分を生きるために、人間とうまく生きてく術を模索したい。
今はとりあえず、そういうスタンスなのだろう。
まだ臆病で、人間が怖くて、自分から何かを発する時は、
ほとんどやり逃げに近くて、その後のことは知らんよ、関係ないみたいな状態になってる。
それをなん度も積み重ねて、いつかうまく生きれればいいな。
今は、自分を生きてみよう。
他人のことなど、その次くらいの気持ちでいた方が、自分は多分、いい。
それくらいでうまくつり合う気がする。
一回ネットで素でいようと思ってみたけど、その時に他者の存在にすら耐えられなくなって、また一人に舞い戻った人間なのだから。
他者のことなど無視して、好き勝手する権利はあるのに、無駄に重く考えて、他人のおもりしかできない。
いつだって見えない何かの精神的奴隷なのだから。
『自分を生きたい』とかいってんのに、他人をずっと生きてて、他人軸で、他人のことばかり気にして。
私が自分だけを生きるなんて一生できないんだろうけど、
できないならできないなりに、もがくしかない。
何度も、もがいて、そこで少しでも得るもの、与えられるものがあればいいのだ。
やらなきゃ、何も得られない。
得てばかりの日常には、退屈しそうだ。
莫大なストレスが伴うけど、今はとりあえず、自分を生きるという努力をするか。
つまり私は好きなように生きる。
他者を気にする、配慮することになっても、他者の世話までしないし、お節介なんてやかない。
自分で精一杯だ。誰もいらない。他人が必要な状態になったら、その時は自分から努力するはずだ。つまり今はいらない。
与えられることに、押し付けられることに関心がない。
自分で得て、自分を見て、自分にしか眼中がない。
快楽のために、好奇心のために動くことはあっても、
めんどくさい承認欲求や自己顕示欲、人間のつながり、関係性のためには、あまり動きたくない。
第一に『自分でありたい』と思うため、それに付随する様々な概念や人間的事柄は二の次である。
まあつまり、ROM専ではなく、投稿する側に回る上で、
誰かのために何かを書いたりだとか、コメント、いいね、フォロー返しする気はない。
くそめんどくさいんで。
自分がしたいなやりたいなって時に、やって逃げるんで。
自分第一だから。自分のこと大好きで、自分のことを見てたいから。
基本自分の記事のみ書き、振り返り、書いてる時間エンジョイする。
それをネットの海にほっぽるだけ。
自分のみたいものだけ見て、好きなことだけして、責任はあまりお持ち帰りしたくない。それでも常識範囲内の責任や配慮は絶対持つけど。
偽善や心の泥酔等、自分がリスクあると判断した発言人物等は基本スルー。誹謗中傷・不快に感じたらミュートブロックなどの自衛は当然。
好きなことして、好きなこと見て、聞いて、やって、自分でいたいだけだから。勝手に楽になりたいだけだから。
個々の主義主張、快楽を押し付け合う空間などはあまり望まない。
決まった誰かと関わるため、誰かを慰めるため、与えるため、答えるために、私は生きてない。それを勘違い思い込みする人間になりたくない。
誰かを褒め、癒すことはしても、誰かを非難して、傷つける気はさらさらない。
僕の言動が誰かのためにしたように見えても、それはその時の自分の欲に従ったものである。
私は私のしたいことをして、それをどっかで不特定多数に見られてるっていう客観的事実に、なんか興奮してるだけである。
そんなもんだよ、自分。
内心興奮して自慰してる面と変わらんから、ROM専でいるかいないかって、そこまで気にせんでもいいと思った。
自分(人間)の場合、
どちらにしても独りよがりで、自分中心に回ってるのに変わりはないから。
こういう文章も自分で自分の心シコるために書いた文章だから。
あんま意味ねーな。すぐ忘れるしゴミ箱に捨てるし、その場しのぎの快楽だから。
なーんか人間って。ねちっこくてしつこくて、めんどいなーって感じたら、即アカウント消して、偽名使ってまた場所を作るから。
そういうのは、そん時の自分にしかわからんだろ。
だからこそ、個々の他人には期待されたくないし、思われたくないし、放任されたい。概念的に期待されたい、とかはまた話が別。
そんな都合のいい環境と人間などこの世に実在せず、それこそ頭の空想の中でしか存在しない。自分勝手すぎる。
だけど現実と折り合いをつけるために、何か存在する、不特定多数に見られる空間で文字を起こしてくしかない。現実適合するための段階の途中だ。
そこまでの責任を持つ気がないから。
勝手にする権利はあるかもしれないが、
それを、何かや感情を押し付けていい正当性に転換する気はない。
そのためにいろいろ自衛はする気でいるが、
noteの特徴としてめんどいんだが、コメント封鎖できない。
封鎖されない限り、そこを誰でも使用する権利はある。
ただそれを、私は認識対応する術はない。する気がない。
そこら辺は、常識の範囲内で、賢明に思考すべきだと思っていて。だからこそ私は、わざわざコメントを消したり、通報するなどめんどくさいことはしない。基本スルーでいる。
コメントが自分目線で不快でたまらなくなったら、noteにおいてはアカウントごと削除するしかない。
快不快は、私が感じ判断する。それは個々の基準だから。しょうがないのだ。
どれだけ自衛しようと、誰が対策しようと、いつかそうなる可能性は常にある。ネットも現実も、どこでも。いつの時代もそう。
だからそうしようと思ってる。メールや電話、SNSなどの通知もめんどいから、基本オフでいることが多い。
むず痒くなったら、記事ごと削除するのも常に手段として考えてる。
そこは私の判断によって決められるべきなのだ。
なぜなら、私が一つ名で一貫性を持って書いたものたちなのだから。
記事は、私の心である。
だから他人ではなく。
自分で考え、守ってくしかない。