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魚の僕には


動画で振り返る湯木慧2022 『W』:L

このブログはぜひ動画を見てから読んでください。
前半は正直ネガティブです。そして内容の一部にすこし反感を覚えたり、失望したりするかもしれないけれど、多分動画見てくれたら結論まで読んでくれるかな…と思ったりするので…よろしくどうぞ。


2022.12.11.21:00
湯木さんが結婚報告をTwitterにあげた。通知の文が、『ご報告』だったので、ツイートを開く前から、直感的に、「これは結婚報告だな」とわかった。

にもかかわらず、いざツイートを開いてツイートの画像文面を眺めても、なかなか情報が入ってこない。「結婚」というキーワードがなぜか見つけられない。どこに書いてあるかわからない。そのくらい処理が追いついていなかったんだろう。

なんと形容していいかわからない思考と感情の中で、最初に去来したものが、「結婚おめでとう!!」という祝福の歓喜ではなかったことに、激しい眩暈(めまい)を覚えた。

誤解を招きたくないので先に一応言っておくが、湯木さんの今回の結婚に関しては祝福しかない。相手とか、もう完璧。あの二人の関係性は自分の中で完成され過ぎているくらいである。初めての相手で、音楽を共に愛すプレイヤーで、2人で植物のブランドを立ち上げて継続している。なんだその設定。完成されすぎていて何も言えない。夫が素晴らしすぎる。本当に彼で良かった。

でも、その報告を見た時に瞬時に沸き起こるべき祝福の感情が、自分の人生との対比による雑音に阻害されていることが、本当に悔しかった。

悔しかった。湯木さんに人生の先のステージを行かれるのなんていつものことなんだけど、今回はちょっと堪えた。年齢とかではない。ただ、同じようにステージを登っていたかったと、初めて強烈に思ってしまった。

なんせ、自分は、中学の時の道徳系の授業で、「人生目標について書きなさい」という課題が出た時に、他の周りの友人がキャリア的な意味での将来の夢を書いている中たった一人「幸せな家庭を築くこと」とか書いちゃってるくらい、人生単位で結婚、家庭を持つことに憧れと期待感をもっている。高2の時に見た『CLANNAD』というアニメが結婚や家族についてのテーマを掘り下げた作品で、それに強烈に影響を受けてしまっているのもあるし、とかくそういうテーマが刺さりすぎてしまう人間なのだ。

だから、湯木さんのこの発表も、刺さりすぎてしまった。しかも、あまり良くない方向に。

でも、この時は、そんな感情に気づいて苦笑いしながら、押し殺してうまい表現を捻り出してツイートしていた。重要なのは彼女の作品だ。湯木さんの曲は彼女の立っている人生のステージを表していて、いつもそれは自分に救いや啓示や激励を与えてきた。だから、今回も、新曲『魚の僕には』を聞くまでは、何も判断できまいと思ったのだ。フルで音源を聴く日が、ただ待ち遠しかった。

そして迎えたその日。
2022.12.15.23:46
Sonar Musicでの音源初オンエア。


聞き終わった直後の感情は、ほぼ絶望だった。湯木さんの新曲を聴いて、心動けなかった。近年はイントロでもう泣いてるのに。泣けなかった。

「命に向き合ってない人になんか響かなくていい」

湯木さんの名パンチラインである。幾度となくこの言葉の力強さに頼もしさを覚えた。けれども、逆説的に言えば、響かなかったということは自分が「命に向き合っていない」ことになる。そんなことを意図して湯木さんは言ってないだろうからこれは自分の解釈が本当にネガティブに寄りすぎているとも、言葉を直接的に考えすぎているともわかっていたけど、思考を止められなかった。

悲しいと思った。

というか、推しが結婚して推し引退するなんて、一番なりたくない状態だった。意味わからねえと思ってきた。結果的にそれになりかけている自分にショックを受けた。

本当に、『魚の僕には』という新曲を、処理できていなかったのだ。

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さて、これで終わったら本当に卒業になってしまうんだけど、幸いそうはならなかった。そうならなかったのは何人かの大切な友人たちのおかげでもあるんだけど。それも含めてここまでが起承、ここからはその後の僕がいくつかの契機を経ながら、『魚の僕には』を聞き倒し、湯木さんの言葉を掘り返し倒して思った、この曲についての考察を語ろうと思う。

一言で言うと、この『魚の僕には』は、湯木さんの曲の中でもかなり異色な曲だと思う。それは創られ方もそうだし、歌詞のメッセージ性もそう。

創られ方に関しては、作曲が湯木さん一人ではないことがまず挙げられる。そしてそれ以上に、一度作った曲をボツにして、再挑戦して生まれていると言うのがかなり大きいと、個人的には思う。今までも、湯木さんが曲を作りながら、完成させていなかったりボツにしたりしたものはあると思う。でも明確に一度完成させた上で、1から作り直したということを明言したのは今回が初めてのことだ。

しかも、本人が根本的に納得がいかない、というよりは、「聴く側からしたらこれは違うだろう」という理由で作り直しているようなのが個人的には驚きだった。今までその時の感情に忠実に詩を書いてきた湯木さんなのを知っているから。

これは真実はわからないけれど、彼女曰くの、「幸せな奴が幸せなことを歌った歌」も、湯木さん的には外に出すものじゃなかっただけで、彼女のリアルな感情ではあったんじゃないだろうか、とか思ったり。

そして、歌詞のテーマ。これも今までのものとは一線を画している。湯木さんの大テーマの中に、人と人との繋がりがあるのは自明だと思う。一見するとこの曲もその一つのように見えるかもしれないが、明確に「誰かと誰かが助け合って生きていく」ことを書いているのはこの曲が初めてである。そして何よりも

「人は弱く作られているから」

という詩。

今まで彼女は、人間は「めんどくさい」「考えすぎ」「上手く作られた(これは皮肉だけど)」「臆病になる」存在ではあったけれど、それでも「思うよりも強く」作られていて、「君は強い」と最後は思う。そういうアーティストだった。

しかしこの曲は明確に「人の弱さ」を書いている。そして、その弱さをある種解決せずに曲は終わる。

彼女は今まで、全て自分の視点で歌っていた。

でもこの曲は飼っている魚の目線で語られる。歌っているのは湯木さんではなく魚なのだ。でも、魚は湯木さんについて歌っている。

今まで自分含めた人間の強さについて歌ってきた彼女が、自分の弱さをはっきりと認めた、そんなことを思わせた。だからこそ、この曲は彼女の変化の象徴であり、新しい世界なんだと思う。

この曲は、弱い人間を強める歌ではなく、弱い人間に、弱いまま生きる術があるんだということを伝える歌なのかもしれない、と。

ここで、自分の話に少し戻るが、これに気づいた時に、今までのように刺さらないのは当然だと思った。

湯木さんは今まで、弱い自分を叱咤激励しながら、時には三日三晩何も食べずに泣き続けても歯を食いしばってギターを弾いて強くあろうとしてきた。アーティスト「湯木慧」であろうとしてきたんだと思う。

そんな彼女の地を這うかの如き、血の滲むような叫びに、自分は勇気付けられてきたんだから。どれだけ周りに恵まれようとも、たくさんの温かい関係に日々支えられようと、辛い時に最後になんとかするのは自分でしかない、そうどこかで思っていたからこそ、同じように弱さを押し殺して毅然と光を探す詩に、照らされてここまで来たんだから。

でも、湯木さんだって人間だ。弱くないわけがないし、一人で立ち続けることができるわけではない。でも、周りからの期待や、アーティスト性、なにより自分が自分であるために、強い湯木慧を前面に出し続けた。そんな湯木さんが、弱さをちゃんと形にしたという意味で、新しい、そしてより高いステージなんだと思う。そうわかった。

『生と死』、『繋がり』、『選択』を歌ってきたけれど、これからの湯木慧は、きっと、弱さを受け入れながら『愛』を歌うアーティストなのだと。
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わかった上で、腑に落ちたことがもう一つ。

愛する人がいる、と2022年の2月頭にツイキャスで初めて明かして、『XT』をリリースしてから、配信、インタビュー、ライブのMCなどさまざまな状況、媒体で湯木さんが言い続けている言葉がある。

「愛の歌なんだけど、みんなについて歌った歌でもある」

「貴方」は愛するパートナー

「アナタ」はまだ見ぬ誰か

そして、

「あなた」はこれまで出会ってきた人たち。

ゆきんこのことだと。

そして、今回の『魚の僕には』でも同じ言葉を彼女は語る。

(湯木さんが自分のリリースした曲についてこんなに文面化するのも珍しい)

どこまで行っても、ゆきんこのために歌を作り続けているということ。

『XT』以上に曲のテーマが新しいステージすぎて、その言葉が本質的に掴めていなかった。『XT』の時はその言葉をすんなりと受け入れられて、ライブで初めて聴いた時にはかつてないレベルで泣いたのに、今回の『魚の僕には』の時には、その言葉を適応するのにかなりの時間を要した。

でも今は少しわかる。今回湯木さんが語った弱さは、今までに語ってきた強さと矛盾しないのだと。

そして、先述した通り、曲を聴いた後に、何人かの大切な友人がこの話を聞いてくれた。そして、言葉をくれた。自分も、弱い人間で、誰かと支え合いながら生きているんだなと、少し思えた。まだ湯木さんほど自分は自分の弱さと向き合えていないけれど、少しわかった。

そうして少しづつ言葉を噛み砕いた先で、聞こえた歌詞。伝わった想い。

"これは あなたのこと"

「あなた」の表記に、全てが込められているんだと。

"誰が正しいとか、間違いじゃなくて"
"今幸せだったらそれでいいと思えても"
"まだ足りないから歌おうと思うのは"
"進んだ分だけの喜びと あなたに出会ったから"

湯木さんはこれからもゆきんこに向かって歌い続けてくれるのでしょう。

いつも、ずっと、ありがとう。

結婚おめでとうございます。


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-あとがき-

今回の年末、『動画で振り返る湯木慧』を制作する上で、本当に困っていた。結婚発表があるまで、湯木さんの2022のテーマは「変化と再出発」だった。

5周年の節目ということもあったし、なにより今年の湯木さんの活動は2017年のトレースがすごい。5年ぶりの全国ツアー、5年ぶりの個展でのライブペイント、5年ぶりのサーキットへの多数出演、5年ぶりのフォトブック制作、一期一会だけリメイクしてるし、細かいことを挙げれば成田さんとの芸術喧嘩も竹谷さんとの対談を思い出させるし、5年前から始まった日野さんとの「演劇」という文脈を自分のライブに完璧に落とし込んだり。とにかく2017にはじまった活動の全てを、5年の成長を反映させながらトレースしている感がすごかった。

だからこそ、『Re』という一本目の動画のコンセプトは割と早いうちに固まっていた。Remindであり、 Retryであり、そして何より本人も明言しているがRestartだったからだ。

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(一本目はこちらから)

しかし、そのテーマに恋愛ネタだけが上手く盛り込めなくて困っていたところに、結婚発表があって、いよいよ詰んだなという感じだった。一つのテーマで動画が作れない。引退だわ、という気持ちになっていた。
でもよくよく考えてみたら今年のテーマって『W』ダブルなんだから2本作ればいいだけの話だよね。
そう気づいたのと同時に、二本目のテーマが『Love』しかないのにも気づいた。

2020年、選択の心実が終わった直後にゆきんこの仲間と話していたことがある。「次の湯木さんの心実はなんだろう?」その答えとして、僕は「愛くらいしかないのでは?」と言っていた、後付けじゃないよ。ガチです。割と賛同してくれてた人もいた気がする。「拍手喝采」とか「火傷」とか、「ありがとうございました」とか、コロナ禍で突然変異的に生まれたテーマが挟まったけれど、やっぱり次の「心実」にあたるものは愛だったなって。

そんなことを考えながら作った2本の振り返り、これが僕の物語でした。こんな解釈、どうでしょう?

鷲津


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