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早稲田卒ニート353日目〜中動態myself〜

少年がお皿を落として割ってしまった。割った責任はその少年にあるだろう。しかしその少年はもしかすると、返ってきたテストの成績の悪さを母親からガミガミ叱られていて機嫌が悪かったのかも知れない。そのせいでカッとなっていて皿を落としたのだ。では、少年をその様な心情に至らせた母親にも責任が求められるべきだろうか。ところがその母親も、連日の夫婦喧嘩によってここ数日はご機嫌ナナメで、そのせいで息子に強く当たってしまったのかも知れない。では、喧嘩の一因である父親にも責任が及ぶのだろうか。しかしその父親も、実は会社での人間関係に苦悩する日々を抱えていたせいで……。真に責任を問われるべきは一体誰なのだろうか。

この様に、因果関係の連鎖は終わりを迎えない。しかしこれでは責任の所在地が不明確になってしまう。そこで呼び出されるのが、「意志」という考えである。少年は、「お前が割ったんだな」と問われれば、「はい」と答えるしかない。少なともその少年が近代を生きているならば、「この皿は初めから割れる運命にあったのだ」とは言えまい。したがって少年は、他ならぬ少年の意志によって皿を割ったことになる。

かくして、意志によって因果関係の連鎖を断ち切る。するとその断面には、責任という概念が生起する。意志とは、行為の帰属を明確にすることによって、責任の主体を明確化するのである。

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