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早稲田卒ニート354日目〜目分量ということの意味〜

銀座のルパンというバーは、太宰治の写真で有名だろう。他にも、坂口安吾や織田作之助が通ったらしい。

私が働いていた銀座のバーは、全日本チャンピオンのオーナーバーテンダーの店で、その人は正真正銘の職人であった。

そのマスターは、「美味しさは点だ」と言っていた。カクテルは周辺的に出来上がればよいのではなく、常にある一点のみを目指して作られる。それゆえメジャーカップを使い、寸分の狂いなきよう神経質に計量する。そうして緻密に練り上げられたもののみが、提供するに値する職人の作品となるのである。

ところが流派は様々ある。ある超有名な銀座のバーテンダーは、「メジャーカップなんか使ってるからダメなんだ」と言っていたらしい。確かに、メジャーを使用せずに作る人も多くいる。協会によって人によって考え方は違う。

今まで私は、メジャーカップを使わずに作ることに反対していた。目分量はどうしたってブレが出る。ブレが出てしまっては、作品は点になり得ない。が、そのブレに価値を認めてみたらどうだろうかと考えるようになった。

手仕事とは、再現不可能な一回性の作品を生む。チェーン店の料理は、全国のどこで食べても同じ味を提供するという点において、それが公平でフェアなものであるという意味がある。しかしそれは、均質であるがゆえに飽きやすい。一方で、家庭で作る料理なんかは、「またカレーかよ」などと愚痴をこぼす思春期の青年は別として、何年も何十年も食べ続けるわけだ。それは恐らく、目分量で作っているがゆえに生まれるブレに由来するのだろう。同じものを作っても同じにならない。一回、一回と作るたびに別物が生まれるのである。

(※メジャーカップで正確に計量しようとも同じものにはならないということは、論を別にして考えなくてはならない。とてつもない腕を持つ日本料理人は、「蕎麦は正直だ」と言った。その時の自分の内面や調子があらわれるのだそうだ。とすると、作品とは、それを構成する要素にのみ分解することはできないのではないか。「料理は科学だ」の様な言葉で料理を分析的にばかり考えるのは、ちょっと躊躇っておきたい。)

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