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早稲田卒ニート363日目〜テメエの目はどこに付いてやがんだ〜

歩きながらふと、村上陽一郎の『あらためて教養とは』を思い出した。正確に言うならば、信号待ちをしていて、ガード柵に寄りかかっているときに忽ち思い出されたのであった。

『あらためて教養とは』は、大学生の時に買って読んだのだったが、その最後に、「教養ある人間に見られるためにしてはならない100のこと」だったか、そんな様な名前の項目が羅列されていた。例えば「人前で髪の毛を触らない」だとか、「流行語を使わない」だとか、そういう条目が100も並んでいるのである。その当時はひとつひとつ目を通して、時々納得行かないところもありつつ、しかし概ね合点が行くものであって、そのうちの数個はいつも頭の片隅にあり続けた。

さて、こうして歩道の端にあるガード柵に寄りかかっているとき私は教養ある人間に見えるのだろうか。そんな問いが突然私に降りかかってきたのであった。そして直ちに体を起こして直立に回帰したことだ。

信号が青に変わり歩き始めたところで妙な疑問が湧いてきた。村上陽一郎はなぜ、あそこで100もの項目を列挙したのだろうか。それを守る様に、言わば読者に対する説教訓を垂れるためなのか。どうも村上陽一郎ともあろう人が、ただそんなことのために紙面を割くとは思えない。

『あらためて教養とは』の「百箇条」についてネット上では、例えば「蛇足である」の様な否定的コメントが書かれている。疑問は深まるばかりである。

しかしあのとき私は確かに、柵に寄りかかる自分の体を、他ならぬ自分の意志によって起こしたのであったに違いない。

やってはならないことが仮に100個あったとしても、その全てを記憶することなど容易にはできない。それに覚えたところで、そのひとつひとつを常に自分の行動と照らし合わせているだけの意識も、恐らく日常では働かないだろう。であるならば、それを覚えて実行を繰り返すことよりも、無意識のうちに自分の行動を自分によって疑う姿勢を持つこと自体に意味があることになるのではないか。自らの視線をもってして自らを相対化するということ。教養とは、自らを相対化するための力である。

村上陽一郎は山口周との対談の中で、「『これでいいのか』と自分に問いかけ考えていく」という機能のこと、また、「自分自身に対する問いかけの連鎖を育てていく」中で得られたもののことを教養だと言っている。

こういう考え方は、例えば、「他人に迷惑をかけていないんだからいいだろう」という理屈の下でいかにも自らを正当化してみせる居眠り学生やスマホ学生にも言えるだろう。それに対して教師が、「周囲のやる気をも削ぐ」などの、他者への配慮から来る反論を返す様では何にもならない。当の本人はそもそも他人に迷惑をかけているなどとは思っていないからである。それなのに、実は他人への迷惑になるのだと言われても納得は行かない道理だ。

それよりも、お前はそれでいいのか、お前には自分に対する目がないのかと問うことこそが教育だろう。居眠りもスマホいじりも、「自分はこれでいいのか」という問いを欠いた教養の欠如から来るものだからである。他人の目ではなく自分の目で自分を見よ。しかし、教師はそんなことは言わない。というよりも言えない。今の教師が教育において教養という価値を見失っているのだからどうしようもないことだ。本当に必要なのは教師教育である。

安芸高田市の石丸市長は、定期試験だったか模擬試験だったかを定刻通りに受けられなかったときに1人だけ別室受験をしたことがあった。その教室でいよいよ試験が終わる間際の最後の1問に時間が足りなかった。そこで、タイマーが鳴ったにもかかわらず、「先生、ここだけどうかお願いします」と頼んだ。別室受験は1人だけだ。試験監督の教師を除いて他には誰もいない。そのとき先生は、「お前がそれでいいなら、いいよ」とだけ返した。そして、石丸市長は、そのままペンを置いた。ここには、確かな教養が表れている。

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