どうやら人間だったらしい。
自分は人間じゃないとずっと思っていたし、人はみんな生きていないと思っていて、人の生きてるエピソードを聞くとげんなりしていた。それを生肉触ったときの気持ち悪さだと表現したとき、しっくり来たし良いことが言えたと思ったけど相手の立場からしたらすごい言われようだ でもそう思った

と思ったら俺も生肉だった。小学校時代の自分を覚えてる人はいないと思ってた、というか自分の中にもその頃の記憶が薄くて、その頃は生きていなかったと思ってた 息を吸うだけが生きているということではなく、生きてるってもっとこう、そういうことだと思っているので、今の自分とか、他の人間とか、特に過去の小学生のころの息を吸っているだけだった自分は生きていない人間じゃないと思っていた

結局、変わらない強度で話せたし、変な劣等感や邪の感情もなく、ただあの頃と同じだけの強度があった。小6のとき仲良かったもんねと言われたの、すごい嬉しかった。俺、仲良かったんだ 人からそういう風に言われる人間だったんだ 虎みたいな羞恥心を抱えているのは結局俺だけで、でもそれも隠して生きていけていたのだ それが偽りの自分かと言われるとそうでもなく、ただその面というだけなのだが、自分がそうあったことがうれしい。恥かしい。気恥ずかしいのではなく、なぜなら気恥ずかしいと思うことが恥ずかしいから、うれしいとそんな人並みで陳腐で生きている人間と同じような感想を自分が抱いたこと、とてもすごい。俺も人間だった かつては人間だったし、きっと今も自分が認められないだけで人間であり続けて、誰もが持ちうる誇大な自意識だけがアイデンティティーとして居座り続け、人間じゃないと否定する心と人間であることを認めている冷静さと人とは違う優越感と、それがさして特別ではないことへの焦燥と、そこまで含め客観視できているという自己陶酔と、そういうぐちゃぐちゃが今息をしている
でも、案外やってみれば自分は普通に人間で、やってみると実は人間だったということが嫌でも自覚してしまって気分が悪いので人間をやらないようにしている節があるのだが、確かに小学校時代はどうやら人間として息を吸っていたみたい

とにかく強度が変わらなかったと思った、すごいらぶちゅだよこれ
高杉さん家のおべんとうが好きです。去るという現象は無い、移動はするけど消え去ったりはせず誰もどこへいったりもしない
俺も結局去ったつもりでいるだけで、どこへ行ったわけでもなく去りもせず、かといって留まり続けるわけでもなく、結局あの頃の延長線上に恥ずかしくも存在していて、それを恥ずかしいと思っていても結局切り捨てられなかった そういうことを突き付けられた 俺を覚えてる人間はいる 恥ずかしいし恐ろしいけどうれしくもあり、それがまた恥ずかしい
一生抱えて生きていくことを提示されたが、かといって受け入れられたわけでもないが、なんか、何かが腑に落ちた夜だった

俺ガイルを読んでバランスをとる