「下書き」ぼっちざろっく

中身は平凡なきららとそう変わりないのになぜ受けたか、その時代性

令和のけいおんとは言い得て妙。
視聴者の立ち位置はどこにあるのか
ぼざろにあるものはある種の共感、というより作品側から視聴者を受け入れる、呼び込む部分にある
個の時代に生きる若者は共同体価値観に身を置くよりも克己する何者かに自分を重ねることによってそこから共感やカタルシスを得る
ぼっちちゃんの機能はある種の投影、それも現代のオタク、インキャの象徴といえる
ぼっちちゃんは誰からも否定されず肯定もされない存在であるが薬にも毒にもならない隣人に囲まれて少しずつ自己肯定感、自己同一性を確立していく、それはなぜか
互いを必要とする場面は演出、ディティールでしかない
現実はお互いが何を求めて何を考えているかは理解し得ない、その間にあるのは双方向的コミュニケーションではなく発信者と受信者、能動と受身の関係性でしか人との交流は生まれない
その中で都合のいい共同体は仮想上の「いいね」しか共有できない団体を示しその個人は実に孤独な存在であり一定の自己肯定感はありつつも常に他者や隣人を求め続けるしかない
ぼっちちゃんの成長、仲間達の関わりの中で達成される共同体または個人のゴールが描かれる
その過程において隣人たちはきっかけを促す存在として描かれるがそれはドラマ上の舞台装置でありぼっちちゃんの自発的行為における必然性は彼らにはない
それがつまり個人と個人のフィールドを侵食しない「当たり障りのない他人」が求められた存在であることを示す
ぼっちちゃんのギターヒーローとしての側面、つまり演奏者としての才覚は視聴者が漠然と持つ自らの可能性のメタファー
「俺はまだ本気出してないだけ」の状態から自分のアイデンティティの認識を他者に渇望している

しかしゼロ年代最後のアニメけいおん。はそこに共感を求めるのではなく傍観者としての視聴者が存在するだけである
男性排他主義のけいおんは空想上の女子たちをただ傍観するのみである
それが自らを当事者から疎外させていくのでそこに自己確立はありえない
あくまでアニメを癒しや現実逃避の機能として存在し得ない

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