見出し画像

筆づかい、息づかい。

柳宗悦唯一の内弟子
鈴木繁男展―手と眼の創作

内弟子との紹介にはピンとこなかったのだが、民藝館の展示ケースの拭漆をしていた人なのだと知って俄然興味が湧いてしまった。

民藝館に行く度、何度見てもあの展示ケースの美しさに見とれてしまう。あれは漆が塗られているなんて、今まで何度も目にしても気づかなかった。けれど、なぜ見とれてしまうのかがやっとわかった。

展示の中でひときわ目を引いたのは、小間絵の数々。迷いなくシャープな動きでありながら、とても繊細な線で、飛沫の先まで神経が行き渡っているようなのだ。筆を使うことは、今よりずっと身近なことであったろう時代だったからこの筆致は特別なことではないのだろうか。自分でもこんな風に筆で絵を描けるようになりたいけれど、教わってできることではない気がした。

彼は雑誌「工芸」の表紙の漆書きをやっていた人なのだそうだ。毎月1000枚すべて手書きだ。やっぱりそう、筆書きの熟した数が尋常じゃない。数を熟すことが機械のような精巧さに振れず、説得力がある精巧さになるんだ。

彼の筆致の説得力がよく現れていたのが、砥部の呉須打掛皿。ジャクソンポロックの日本版みたいだな位に最初は眺めていたのだが、次第に筆の躍動感を感じつつ、皿の上に落ちた色の瑞々しさには静があって、自然の成り行きと見事に協業しているように感じる。その神がかった皿が、手が触れそうなテーブルの上に置かれている。と悟った瞬間、不思議な緊張感との対峙に変わった。

人の手が作る物には、その人の息づかいが感じ取れる。そのことが尊いと思うようになったのは加齢によるものだろうか。生きてきた時間の長さなりに沢山物を見てきた。次第に目の付け所も変わってくる。いつの間にか、工芸というところで目を力ませて、あれこれ見たり考えたりしている。

帰る途中に、店先でシールで絵付けをされた和皿を手に取った。素敵な絵柄だけど、その皿にのめりこめない。息づかいが感じられないのだ。シールだって人の手が貼っている。貼る人の息づかいだってあるはず。たぶん。皿に注ぎ込む集中力(念)の違いなんだろうか。ずっと考えている。知りたいけど、きっとずっとわからない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?