「何を言ったかではなく誰が言ったかが大事」←これ

※注意 3000文字以上あり、冗長で添削していない文章なので耐えられない人は推奨しません

タイトルの通り「何を言ったかではなく誰が言ったかが大事」という考えが好きではない。あえて私の意見を言うなら「誰が言ったかではなく何を言ったかが大事」だ。
この後文章を書く上で定型の長い文を繰り返すのがだるいので
「何を言ったかではなく誰が言ったか」を①
「誰が言ったかではなく何を言ったか」を②
とする。
①の考えを「嫌い」と一蹴してしまったが、正確に言うなら①の考えの人は議論ができない人だと私は思っている。
②の考えは以前から持っていたが、その考えを再確認する出来事があった。
少し前の話題だが、中田敦彦が「松本人志への提言」という動画を出して炎上までいかなくともボヤ騒ぎぐらいにはなったことを覚えているだろうか。
知らない人のために説明すると
中田敦彦が自身のYouTubeチャンネルにて、
今のお笑い界は松本人志一色で松本人志が評価しないお笑いのスタイルは大衆にウケても生き残れない
その原因はお笑いのあらゆるコンテストで松本人志が審査員になりすぎているからである
だから松本人志は審査員になるのを少し控えるべきである
というような内容の動画をアップした。
私の解釈に誤りがあると感じたら是非指摘してほしい。

https://youtu.be/fHrzrL06I2A
動画を視聴した方が正確に伝わるだろう。

この動画の中で中田敦彦は主張したいこと以外にも余計な発言をしていて、反感を買う要素が多分に含まれている。
しかしそれは別にして主張したこと自体は価値があると私は感じた。
お笑い芸人として芸能界にいた経験のある人が感じた、業界の歪みについて公に言及することは常態化していた問題に切り込み、より良い運営に繋がると思うからだ。
主張そのものも価値があるかもしれないが、それよりも皆がそのことに注目し議論する機会を与えたことに、より価値がある。

しかしこの動画を見た人の感想をネットで探してみると多くの人が
「中田敦彦くそおもんないのにまっちゃんに意見する身分にねえだろ」
というようなことを言っていた。
「お前そもそももう芸能人じゃねーんだから古巣に意見すんのやめたら?」
というパターンもある。
これらの意見がいかにピントのズレた感想かわかるだろうか。
おもんないやつは意見できないならそういう君はどうなんだい、という話だし、芸能人じゃないと意見できないなら一般人である我々は黙ってろという話になる。
そうじゃないだろう。どんな人でも意見があっていいし、誹謗中傷をしなければ意見を述べる自由だってある。中田敦彦が松本人志より面白いか面白くないか、現役か現役でないか、は意見の優劣に影響しないはずだ。
このように全く建設的な発言が出来ない原因は、最初から中田敦彦の話など聞いていないし、考えるつもりもないからだ。松本人志が好きな人は中田敦彦の意見を意見として認知していない。攻撃だと認識しアレルギー反応を起こしている。「なるほど、そういうこともあるのか」と前向きに意見を検討し始めることが建設的な反応じゃないだろうか。

ここまで語れば中田敦彦が攻撃されてしまった原因はわかるだろう。 
おそらく中田敦彦と松本人志を比較したとき、好感度という土台において中田敦彦は弱者だった。松本人志の方が圧倒的に心理的フォロワーが多かったのだろう。
だからお笑い芸人である中田敦彦に対して「面白くない」とむやみに傷つけるような言葉を使ったり、「引っ込んでろ」と相手を尊重していないような発言になるのだ。
大なり小なり誰だって自分が好きな人を贔屓目に見てしまうものだ。しかし、その気持ちに引っ張られすぎて黒を白だと言うようになったら終わりだ。
自分の大切な人が犯罪をしたからと言って犯罪を肯定できないように、自分が贔屓にしている人が責められているからといって脊髄反射的に反発するのは違う。しっかり自分の頭で考えなければならない。

ついでにこの件に関して私の意見をついでに述べる。
結論としてはひろゆきの意見に同意した。ひろゆきの意見というのは
「松本人志という看板があるからコンテストを見てくれる大衆がいて、新しい才能を発掘する機会がある。だから松本人志が辞める必要はない。しかし、中田敦彦が言うようにほぼ全てのコンテストの審査員に松本人志がいることで笑いのスタイルに偏りがある、というならば新しく松本人志がいないコンテストを追加で作ればいい。コンテストの数が増えて業界自体の活性化にも繋がる。」
というものだ。
私はお笑い界のことに全くもって詳しくないので熱を入れて意見したくなる点はなかったのだが、なんとなく「松本人志がいるから番組見てる人も多いんじゃないかな」と感じていた。しかし中田敦彦の言うような実態があるならば改善の余地があるだろう。そこでさまざまな人の意見を読み漁っていたらひろゆきの意見にあたり、これだな、と思うに至った。

ここまで①の考えが、攻撃的で非建設的だということを述べてきた。しかし①の考えというのはそれだけでなく「騙されやすい」というデメリットもある。
◯◯さんが言うのなら正しい」という権威主義的感覚はその◯◯さんが道を踏み外したり、方向性を変えたり、実は悪人だったりしたときにあまりに脆弱なのだ。
「何を言ったかではなく誰が言ったかが大事」という言葉は、情報の信頼度が発言者に依存しすぎている上に、あまり更新されないことに問題がある。発言内容に重きを置いていれば、その都度意見を吟味するので脳死することはない。
「◯◯さんが好きだからこの人の意見の方が正しい」
もしくは
「◯◯さんが嫌いだからこいつの言うことは間違っている」
と判断する癖を無くしていくべきだ。
②の考え方ができる人口が増えれば増えるほど平和で健全な社会運営ができる世の中になるだろう。

しかしながら多くの人が①の考えを持っている理由はわかる。上に記した通り人には感情があることに加えて、脳みそが隙あらばサボるようになっているからだ。
毎度毎度意見を吟味するなんてことを多くの人はめんどくさいと感じている。だから脳みそがカテゴリー分けのように自動で機械的に思考を単純化しているのだ。
AさんとBさんを感情で比べたとき、Aさんのほうが好きならAの意見が正しい、という思考のルールになっている。
その前提があるから、松本人志にそこまで入れ込んでいない人でも中田敦彦と比較したときなんとなくうっすら松本人志の方が好き、という微差だけで最終的な意見が松本人志寄りになる。
ここまで読んできて「自分は松本人志大好きってわけじゃないけどな…」と感じていた人も納得していただけただろうか。

【補足1】
誰が言ったかによって意味が変わる場合もある。

【補足2】
「おまいう」と「何を言ったかではなく誰が言ったかが大事」(①)を混同する人がいるがこれらは別物である。

泥棒が「盗みは良くない」と言ったとしたら、「泥棒のお前が言うな」とはなるが、泥棒という信頼度の低い人間の発言だからといって「盗みは良くない」という発言が間違っているとはならないだろう。つまり発言者と発言内容は別なのである。

ここまで読んでくれた人は「いちいち毎回意見を吟味して随分暇なやつだな。こっちは暇じゃねーんだよ。」と思ったかもしれない。
その意見には同意だ。
しかし趣味なのだ。世の中の事象に関して考えたり調べたり理屈をこねたり意見を交換したりアップデートしたりすることが。
そのようなことが趣味ではないと思う人は、意見を求められたときに「わからない」と言うようにすればいいのだ。感情的で細かいことなんて考えていない結論を出すより、保留にするというほうがフェアである。
そのほうが後から考えて意見を言うこともできるし吟味したのだから納得感もあるだろう。
そして考える癖をつけると自分に学びを還元できることもある。

意見というのはどこまでいっても未完であり、更新し続けるものなので、もしかしたらここまで書いた内容が明日にはひっくり返っているかもしれないことを頭の隅に置いておいてくれたら嬉しい。
この意見に対する感想や反論いつでも大歓迎なので気が向いたら是非コメントして欲しい。

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