反出生主義は負けないけど勝てない

みなさんは「反出生主義」という言葉を知っているだろうか。

反出生主義とは
「自分は生まれてこないほうがよかった(誕生の否定)」
「人間は生まれない方が良いので生まない方がよい(出産の否定)」という思想

https://data.wingarc.com/antinatalism-31027

昨今このような考え方をする人が増えたのではないだろうか。私はこの思想を肯定する気はないが否定する気もおきない。
ではなぜこのことについて論じようと思ったのか。それは反出生主義の人たちとそうでない人たちの間には大きな溝があり、お互いの会話が噛み合っていないことが多いからだ。
その構造について書こうと思う。

出発点が違う

反出生主義に対立する思想として、出生主義がある。はじめて聞いた人でも意味はわかるだろう。

出生主義とは
人間の生命の生殖を促進する信念
出生主義は、社会的理由から、そして人類の存続を確保するために望ましいものとして、出産と親子関係の構築を促進している。

Wikipedia「出生主義」

この2つの思想は相容れない。なぜなら出発点が真逆だからだ。
人生を送る上で成功や失敗、勝ち負けがあるなら、私が思うに出生主義は成功や勝ちを目指している。一方反出生主義は失敗や負けを避けることを第一に考えている。
この違いがわかるだろうか。一見同じことのように思えるが実際は全く違う。
ゲームで勝ちたいのであれば、まずゲームに挑戦をしなくてはならない。しかし、負けたくないだけなら、そもそもゲームに挑戦しなければ確実に負けない。
ゲームを人生に置き換えるとそのまま出生主義と反出生主義になる。
出生主義も反出生主義も失敗したい、負けたい、不幸になりたいとは思っていないことが共通しているため、話がややこしくなりがちなのだ。

既に勝負は始まっている

生まれなければ良かっただの産むのは悪だの言っているが、時すでに遅し。もうこの世に生み落とされてしまった後にそんなことを考えても後の祭り。考えるだけ無駄だし、そんなことを考えるくらいなら死んでしまった方がよっぽど楽だ。
しかし私は自殺を推奨しない。なぜなら生を受けたのにも関わらず、それに自分で終止符を打つことほど人生における不幸はないからだ。現実が苦しくて苦しくてそれから逃れるために死にたいと思う人はいても、根源的に死にたいと思う人は生物である以上いないはずだ。不幸を避けたくて反出生主義になったのにその思想のせいで不幸になったんじゃ元も子もない。
勝負は既に始まっている。勝負をするかしないか悩んだり異議を申し立てたりする暇はないのだ。

反出生主義の心

最初に反出生主義に対して「肯定する気はないが否定する気もおきない」と言っていたくせにめちゃくちゃ否定してるじゃないか、と思ったかもしれない。
その通りだ。健康な心の状態の私はやはり反出生主義を考えても仕方のないことだと思える。しかし心になんらかの傷を負っていたらそう思えないこともあるだろう。
人は余裕がないと何かのせいにしたくなる。それは自分に向かうこともあるし社会に向かうこともある。その1つの形態が反出生主義なのではないだろうか。
もし元気で心や能力に余裕あるなら、何かのせいにして終わりではなく、解決策を模索し始める。解決できると信じて手当たり次第に行動する力がある。
しかしリソースが足りない状態だと、限られた自分のリソースを割くに値する方法なのか?そもそもこの方向性で合っているのか?など行動する前に頭でっかちになる。そしてどんどん身動きが取れなくなる。そうなってくるとなにも出来なくなるので生きながらにして死んでいるような気がしてくる。なぜ生まれてきたのか。生まれてこなければこんな苦しい思いをしなくて済んだのに。
そうやって反出生主義になるのだろう。
そのような経緯を考えると、否定する気もおきないと思ったのだ。

生まれたからには出生主義

生まれてしまった人にとっては出生主義の方が都合が良いだろう。自分が生まれてしまったからといって、別に世の中の人々に対して子を産むべきだと主張する必要はないのでは?と思った人もいるかもしれない。
しかし人間は社会的な生き物なのでやはり個としての能力にあまり期待出来ないのだ。人間は人間がたくさんいるときにその真価を発揮する。社会自体も子孫が生まれてくる前提で運営されている。実際、少子高齢化などと問題になっていることからもわかるように、生きている人間にとっては出生主義こそ正義である。

さいごに

生きている間は「生きてるってサイコー!」と思わないととやってられないので反出生主義なんて辞めちまおう。
反出生主義は死んだ後に考えよ〜

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