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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(62)

質問と会話はちょうど1時間続いた。その後キンゼルと彼の「友人たち」はビューエルの入り口の間に入り、立ち話をしていた。

ビューエルのラム肉が焼きすぎて焦げたような匂いがしたので、私はそっと彼女の小さなキッチンに入り、手入れをした。キッチンは入り口の間のすぐそばにあった。

私が耳にした会話はこうだった。

「彼はおそらくプラン A には乗らないだろう。彼は十分に熱心ではない。プラン B に切り替えることを勧める。」

「彼は頑固なので挟み撃ちにされることを嫌がる。事実を知ったら、彼は立ち去るかもしれない。」

その後、一団はホールに行き、エレベーターで去っていった。私はその後にこのことについて一言も聞くことはなかった。私はひどく当惑した。

数年後、私は国防情報局を数度訪れた。当時はまだワシントン郊外のメリーランド州ローレルにあった。私は混雑したロビーで付き添いの人を待った。

エレベーターのドアに着くと、ドアが一つ開き、店で買ったスーツを着た男が出てきた。彼がビューエルの所で会議に出席していた一人であることは間違いなかった。

「あの男はここで働いているのか?」私は護衛にそっと尋ねた。

「彼?彼はバージニアの会社で働いている。」

そうだ!それが意味することはただ一つだった。彼はCIAであり、そしてあのときからそうだったのだ。

1972年3月当時、実験は非常に順調に進んでいた。正式な一連のOOB実験は終了していた。

次は独立した審査員が私の印象とスケッチをターゲットの写真と比較するのを待たなければならなかった。うまくいけば、それらは正しく一致するだろう。

当時は私は最初気づかなかったが、実験のある側面が次第に明らかになるにつれて非常に感銘を受けた。

この側面については後で詳しく説明する。それは制御されたリモートビューイング(CRV)の中心となるからだ。ここでは簡単に要約するだけにする。

心霊研究や超心理学には、超能力を持つ被験者の状態が整い、印象が入り始めるまでに時間が必要だという神話がある。これは行動が起こるまでかなりのタイムラグがあるように見える霊媒術の顕著な特徴のようだ。

しかしASPR での実験に関しては、この予想されたタイムラグはまったく当てはまらないことがわかった。私が気づいたのは、対象に注意を向けた瞬間、それはそこにあったということだ。

非公式の遠距離リモートビューイング実験で、私はすぐにこれに気づいた。ジャネットが脳波を記録する準備ができたと言ったとき、私の注意はターゲットに向かった。そしてそれはそこにあった。いかなるタイムラグもなかった。

私はこれが OOB 実験の場合にも他の種類の実験の場合にも当てはまることに気付いた。私が深く腰掛けてターゲットの印象を待っていると、それらはすでに来て、消えていた。それは瞬時の知覚だった。

それは速度の問題ではなく、即時、瞬時のことであった。この現象に関心を持った私は「超能力シグナルへの瞬間的な接続」と名付けたが、誰も私が何について話しているか理解できなかった。

3月後半のある時点で、私は再びタイムズ・スクエア近くのクリーヴ・バックスターの研究室を訪れた。

私たちはジャンクフードを食べに出かけ、私はこの現象についてクリーヴに話した。研究室に戻ると、クリーヴはファイル・キャビネットから書類を何枚か取り出し、私に手渡した。

ハル・パソフ Hal Puthoff はカリフォルニアの物理学者だ。彼はタキオン、つまり光速よりも速い粒子にとても興味を持っている。この件について彼と連絡を取るべきだ。」

私が書類に目を通していると、クリーヴはこう言った。

「彼は非常に名声のある人物だが、君たち二人は気が合うかもしれない。彼はサイエントロジーにも熱心だから。」

私は信じられないという思いでクリーヴを見上げた。そして、書類を頭上に投げた。書類は床に舞い落ちた。クリーヴは私が気が狂ったかのように私を見た。

「クリーヴ、なんてことを言うんだ。この件で私が何を経験したか君は知っているだろう。ぼくは他のサイエントロジストと連絡を取ることは絶対にできない。世界中がここに陰謀があると確信するだろう。そんなことは論外だ。」

クリーヴは笑って、書類を拾い集めた。彼は私にコピーを取り、家に持ち帰って読むように言った。私は絶対に読まないと決めていた。しかし、好奇心が勝ってしまった。

私はその書類がとても刺激的で興味深いものであると不本意ながら認めざるを得なかった。

結局、私は 1972 年 3 月 30 日付で H. E. パソフ博士に手紙を書いた。

そしてその手紙によって、私の人生が引き込まれる「状況」は永遠に変わった。そんなことになるとは思ってもいなかったのだが。

私が求めていたのは「超能力シグナルの速度」についての議論だけだった。だが結局、私の人生のその後 17 年間はそのことに費やされることになった。

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