しないされない

あまり情深い人間ではないが、人間がされたら嫌なことくらいはわかっているつもりである。

たとえば、裏切られること。嬢とのプレイ中でもないのに蹴られること。雪見だいふくを勝手に一個食われること。母親のへそが特殊な形状をしていると喧伝されること。

人間がされて嫌なことを判断するのはそこまで難しくはないので、努めてそのようなことはしないよう心がけている。
初めて試みる行動でも、自分がされてどう思うか考えれば、やっていい行動かどうかの判断にそこまでの誤差は生じない。


一方、「されないと嫌」なことは難しい。
「されると嫌」かどうかはしようと思ったときに確かめれば問題ないが、「されないと嫌」なことは、そもそも当該の行動自体が思い浮かんでいないと判断云々関係なくやり損ねる。

そういう事柄で一番苦労したのは『身内以外の誕生日を祝うこと』である。

小学生の頃、何かで私の誕生日を知った子が、誕生日の朝に「今日誕生日だね!おめでとう!」と言ってくれた。

今思えば大変ありがたい話なのだが、「ありがとう」とノートに返事を書きながら(その時は学校で喋らなかったのである)私がどう思ったかといえば、「誕生日を祝うのが好きなんだなあ」だった。

身内については、「生まれてきてくれてありがとう我が家族」的文脈で理解していたが、赤の他人から祝われる意味がよくわからなかったのである。
他人の誕生日というのは「祝われた側が嬉しいもの」ではなく、「祝う側が楽しいもの」らしいという解釈になっていたので、友達から祝われなかったら悲しいと思う人がいるとは想像しなかった。

同じように、放課後の遊びとは誘われたら行くものだと思っていた。
人を誉める、心配して言葉をかけることもなかなか身に付かなかった(将来を心配された)。

受け身というより、傲慢な小学生である。よく友達ができたなあ。

改善のきっかけはいつも、私から「されなかった」相手が激怒したことである。
「誕生日を祝ってくれなかった。絶交」
「遊びに誘ってくれない。いつも私ばっかり」
「あんたら(私と父)、私(母)が風邪を引いても全然心配してくれない」

申し訳なさすぎて胃が痛くなってきた。
(言い訳すると、小学生の頃は「親は絶対死なないし無敵だ」と思っていたフシがある)

今では「されないと嫌なこと」を「する」ことが、ある程度できるようになった。
人の気持ちを想像するのは相変わらず難しいが、過去のケースを反省として蓄積しておいて「こういう状況だからこれを「しないと」嫌がられる」とういのを地道に照合することでなんとかなっている。

ただ、昔と違って親がそろそろトシなので、親が風邪引いた時だけは心の底から心配して気遣いができるようになった。
いいんだかわるいんだか。

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