記事一覧
2022年12月の俳句。
潮騒に クラクションひとつ 十二月
塀の上 冬日を抱いて 浜の猫
家の南側にあるブロック塀の上をのっそりと動く 黒い 影が曇りガラス越しに。
北風の来ないこのポジションは日向ぼっこには絶好のポジションだ。
冬日をまっすぐに受け止めて海を眺めているのは どこかの野良猫だ。
早々と 塒へ鴉 山眠る
山眠るは 冬の山の静まり返った様をいう。
春は 山笑う、夏は 山滴る、秋は山装う。
オムレツは
2021年12月の俳句。
上げ底の月ぞ 師走は 床屋行く
十二月も半ばを過ぎると 今年も終わりという感がつよくなる。
二十日を過ぎるともう新たに仕事を始めることもできない雰囲気に包まれる。
みかけほどに中身がないパッケージのことを上げ底というが、十二月はまさに上げ底の月であることをいつもながら実感させられる。
海鳴りの 遠く近くに 冬の月
寝室の窓の端から月の光らしいものが差し込んでいる。
風の強い晩 その窓から海鳴
2020年12月の俳句。
ポインセチア ほんのり季節 巡り来る
キッチンの どこかでクリスマス やっている
キッチンにいたとき どこからか 小さなクリスマスの旋律が聞こえて来た。
どこから聞こえてくるのか、テレビでもなく、電話からてもなく、タイマーのアラーム音でもない。
耳を澄ますと それはヒキダシの中から。
引き出しをあけると そこにクリスマスカードがあった。まだ封も切っていないのに
何かの誤作動か、突然に鳴り出すよ
2020年11月の俳句。
ストレッチし まま寝転んで 小六月
小六月は旧暦十一月の古称、晩秋から初冬にかけての春のように暖かな日よりをいう。
俳句では小春と同様に使われる。
ほろほろと 手に花柄を 冬に入る
数年前から サンゴバナという草花を家のなかで育てている。さんごのようにピンクの花が咲くことからそのように呼ばれているらしい。
花が咲いてからしばらくそのままにしていたら やがて穂のようになり。もういいのではと手に
2022年10月の俳句。
人類葬というものあれば秋の虹
8月にロシアの元ゴルバチョフ大統領が逝きました。
東西冷戦からベルリンの壁の崩壊につながる新しい時代を用意した最大の功労者はゴルバチョフその人です。しかし 国葬になることもなく、プーチン現大統領が葬儀に出席することもありませんでした。ゴルバチョフその人にふさわしいのは国葬ではなく人類葬ではないかという思いが湧いてきました。
今年エリザペス女王が亡くなった時に宮殿に虹
2021年10月の俳句。
台風の 風豹の子ら 窓に鳴く
台風当日の窓からはヒュヒューと風の音がしきりに聞こえてくる。
それが私には猫科の動物の子らの声のようにきこえていた。
それは例えば 豹のようなものかもしれない。
チべットには雪豹という豹がいるらしいが、台風が連れてくるのは目には見えないが 風豹という獣なのかもしれない。
雨戸明け 朝を入れたる 野分後
野分は台風の古語
猫のごと 腹鳴いており 芒原
空腹にな
2020年10月の俳句。
回覧板 秋雀 舞う 所まで
回覧板は通りをはさんだ向かいの家から回ってくる。
十年前まではすぐ隣の高齢の一人暮らしの女性の家まで持っていけばよかった。
しかし彼女が亡くなってからその隣の高齢者の夫婦が住んでいる家までもっていくことになった。
しかし五年前にその老夫婦も相次いで亡くなり、その先の三軒目の家まで持っていかなければならなかった。
しかしそのお宅も昨年に家がひどく老朽化したために家を捨て
2022年9月の俳句。
看板に 牧のアイス 秋暑し
今年の夏は 御宿町の町営プール、ウオーターガーデンで 売られているアイスクリームがおいしいという話を聞いた。なんでも 地元のO牧場の牛乳を使って作られたものだという。
しかしプールに行くこともないので買う機会もールもないままに プールは閉園してしまった。
しかし九月に入って 浜通りを歩いていると そのO牧場のアイスクリームありますという看板が出ていたという。
まだまだ
2021年9月の俳句。
明るさへ 伴走者となでしこと 観客と
2021年9月5日 日曜日 東京パラリンピック最終日に行われたマラソンの最後を飾った 視覚障害 女子マラソンの部で 道下美里選手が伴走者(前半 青山由佳、後半 志田淳)と共にトップでゴールを切った。
ゴール直後二人はかたく抱き合った。後続のランナーの多くもゴールインすると感動のハグを交わしていた。
伴走者はガイドロープと呼ばれる短いロープを通じて 視覚障害の
2020年9月の俳句。
とろ箱の 田にも黄金や 稲雀
トロ箱とはさかななどを運ぶときに使われる箱のこと。
知人の娘さんが稲の生育を体験学習していた小学校から余った苗をもらって来た。
トロ箱に水をはって育てていたら背丈は低い物の一人前に稲穂が実ってくれた。
せっかくだからあしたはおにぎりにして食べてみようかしらと親子で話していたら、翌朝にはすっかり稲穂の実は食べられていたとのこと。
おそらくは雀の腹に納まってしまったのだ