咳をこらえること

むせて咳をしそうになったとき、ほぼ無意識に、それをこらえていた。
「咳をする」ということは、呼吸器系統内の異物を排除する身体のはたらきであると同時に、「病気である」ということの表明でもあるように思える。漫画でも小説でも、病気の人を描きたければ、咳をさせておけばよい。沖田総司も高杉晋作も、みんな咳をしている。かれらは結核だが、現在では病気といえばコロナに限られる。
「咳をする」ということは「感染者」であることと近く、むせて咳き込むようなことはなんだか避けるべきことのように感じられてきていた。

咳をこらえる、という動作にともなって、ある出来事が思い出された。
ここ2年のうちに起こった、自分に大きな悲しみをもたらした出来事だった。自分を呆然とさせた、自分の心に穴を開けた出来事だった。理解が受け付けなかった、といってもいい。
悲しむより先に、悲しまなければ、と思った。今ここで泣かなければ気持ちに整理がつかないと思ったけれど、泣く、という機能が追いつかずに、「涙をこらえる」という動作だけが先行したのを覚えている。
そう、きっとこの「涙をこらえる」という動作がきっかけだったのだろう。

喉で息を詰めて、軽くこめかみに力を入れる。せり上げるものが通り過ぎるのを待って、細く息を吐く。
咳をこらえる一連の動作が、涙をこらえる動作とちょうど重なって、その出来事が想起されたのだと思う。
自分にとって咳をこらえることは、悲しみを思い出すことになってしまった。悲しみや涙が追い付かなかったことを思い出して、悲しみに浸ることと結びついてしまった。咳をこらえるたびに、あとからあとから、悲しい気持ちが増えていくことになる。もともと悲しみとはこうやって、あとから塗りたくっていくものなのかもしれない。

自分が生きていくことは、自分以外の何かが失われていくのを眺めることにほかならない。しかし「失われた」ということほど理解しがたいものは、生きていくうえでも数少ない。失ったその時でさえ、そこにないというだけで、もうどこにもないということを受け容れるのは難しい。失ったことを忘れているうちは、まだ失っていないかのようにすら思える。失ったことを思い出した時はじめて、悲しみがはっきりと現れてくる。そうして思い出すたびに、その色合いが濃くなっていく。自分が直面した悲しみはこのプロセスでやってきた。

みんなはこの悲しみをどうしているんだろう。
はじめから真っ直ぐに向き合えているのだろうか。
もっと手際よく整理をつけているのだろうか。
同じように思い出して、同じように悲しんでいるのだろうか。
雪が降るみたいにまっさらにしてしまえるのだろうか。

クリスマスが一歩ずつ近づいて、街が陽気になっていくより前に、どうしてもここへ書いておきたかった。咳をこらえるような時代は、これから先、どのように思い出されるのだろうか。いつか涙をこらえた時は、かえって咳をこらえた時のことが思い出されるのだろうか。それならば、悲しみと同じくらいの喜びも思い出されてほしい。悲しみが深まるように、喜びも深まるものであってくれたら、良い時間を過ごしたと思えるかもしれない。


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