【中編】小説「提出物の添削がめちゃ厳しい先生」

午後の3コマはとてもいつもの様に平常心で受けられるものではなかった。無理やり心を落ち着けようとしても、浜辺に波がうっては引きうっては引きするように、野村茂子の顔が、まるでホットミルクに出来る膜のような奴の顔がちらちらと思い出された。
 終礼が終わると同時に、教室に訪れていた束の間の静寂も終わりを迎え、たちまち賑わい出した。秋の終わりの、冬を待っている憂鬱な灰色の空が、私たちを眺めていた。

 第二応接室は、現在立ち入りが基本許されていない「南棟」のどこかにある。ちんちん丸出し中学高等学校は1度大規模なリペイント+耐震補強工事が行われほとんどの建物が無機質な白色に変わったが、予算の都合か何かの曰くか、南棟だけなぜか手付かずのまま、焼け焦げた上にほこりをかぶったような茶色を纏って残っている。 
「そもそもさ、第二応接室って南棟じゃんか?俺ら入れねえんじゃねえの?」
「入れるか入れないかじゃなくて、俺らはいまから南棟に進入するんだよ。隠密にな」
高等部の教室がある北棟から南棟へ伸びる渡り廊下を歩きながらこんな会話をした。南棟は、我々が思っていたよりも大きな体をして立ちはだかっていた。それにしても、野村茂子がまさか立ち入り禁止の校舎に高等部の生徒2人、それも学年の中でとりわけ優秀な私と吉村を呼び出すような女だったとは。俺と吉村はすっかりお見逸れしていた。こんなこと、普通の先生がすることではない。そして、俺が抱いていた野村茂子への漠然とした不安は、南棟に近づくにつれて徐々に立体を持ち始めていた。
とうとう、我々は南棟の入口、くすんだガラスの周りを木のフレームで覆った両開きのドアの前に立ち止まった。ドアの向こうからなにか異常な気配がしたが、この際野村茂子をクビにできるチャンスと捉えて意気揚々と扉を開いた。普段は施錠されていて入れないが、今日は鍵が開かれていた。
「うわっ、酷いにおいだな、bad smell…」
吉村はそう言って、南棟へ1歩踏み出すなり後ずさりした。たしかに、古い時代に取り残されたような、廃墟と化した曾祖母の家で嗅いだような寂しいにおいを更に50年発酵させたような感じ。ただ、俺はそんなことには意識を向けず、この校舎のどこかにある第二応接室を見つけ出すことに集中…するまでもなく、入って右手にすぐ「第二応接室」と筆で書かれた木の札が、これまた朽ちかけた引き戸の上に取り付けられていた。吉村もなんとか俺についてきていた。もし50後半の容貌を呈するババア漢文教師がどう暴動を起こしたとしても、男子高校生2人でどうにかできないことは無いだろうと言い聞かせて、また勢いよく引き戸を左へスライドした。
「いらっしゃい、鞭麿君、よしむらくん」
この時、俺と吉村は唖然とした。野村先生は応接室の真ん中に用意された対談用の机の奥側に両腕を寝かせて、こちらを向いて座っていた。が明らかに、今までの野村茂子とは顔がちがっている。私たちが知っている野村茂子は、もっとホットミルクの膜のような顔をしていたのに、今目の前にいる彼女は、安い言葉で言えば超可愛いのである…
 言い遅れたが私は、鞭麿忠(むちまろ ただし)という名前である
「よしむらじゃなくて、ラックレギオンです」
吉村も驚きを隠せていない様な顔をしながらも、野村への苛立ちを少し出力して名前の読み間違えを是正した。
「あらあら、失礼したわね。だってあなた、全然授業で発表したりしないじゃない。先生だって、名簿に目をさささーっと通すだけで子供たちみんなの名前を覚えられるわけじゃないのよ」
「野村先生、俺は野村先生の漢文の授業で発表しなかったことはありませんよ…?」
吉村のこの発言に、一つも間違いはない。彼は授業でよく発表するタイプだし、その正答率はとても高い。そのことを授業を担当していた野村茂子が知らない道理はない。野村への疑問とこれから起こる事態への不安が、私たち2人の心に靄をかけ始めていた。
「あら、また間違えちゃった。そんな名前だから、てっきりクラスの中で浮いてるのかと思ったわ。私が担任を受け持ってるクラスにもね、二郎丸とかいう意味わかんないちんちくりんな名前の子がいるのよ..」
「…まあ、ここまできて嘘で誤魔化す訳にもいかないわよね」
しばし沈黙の後に野村先生がそう言い終わると、お化け屋敷のアメニティのそれのように、応接室の右奥にある鉄製の掃除用具入れがガタンと揺れた。 これには、最大限平常を保っていた俺と吉村も腰が抜けそうになった。
「おい、まだだ!その中で、じっとしていろ!」
野村先生は突然声色を変えて、今までよりもずっと低い声で目線はこちらに向けたまま掃除用具入れの中にいる何かに叫んだ。すると掃除用具入れはもう動かなくなってしまった。
「そういえば1度、先生がツチブタを飼っているって話をしたわよね?」
声が元に戻っていた。私と吉村はもう、野村先生と奥の掃除用具入れから目を離さないまま黙っていることしかできなかった。
「そのツチブタ、今あの掃除用具入れの中にいるのよ」



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