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“まずは記事を読んでみませんか?”

AppleEventでのプロモーション動画が炎上している。すでにご存知の方もいるだろう。

Appleは5月7日、新型のiPad Proなど、5月15日に発売する製品を発表した。
M4チップを搭載したiPad Proのプロモーション映像では、プレス機で楽器やカメラなどを破壊する様子が映されており、「酷すぎる」と批判の声が集まっている。

しかし、今回のプロモーション映像に対しては特に、長年のAppleユーザーのクリエイターらからの批判が集まっている。
《楽器を潰して破壊していく映像、つらかった。自分の全身が痛みを感じた。音楽を愛するAppleがこんな映像表現をするとは悲しみを超えている》
《サステナブルを謳う会社がこういう表現やるんだと意外だった。クリエイター向けなのに彼らと道具へのリスペクトを欠いている印象含めて》
《本当に今回のはひどいです。一番好きなブランドが一番酷い表現をしてしまって、悲しいを通り越して嫌悪感を覚えます》


ただ、私自身は、そこまで批判したいという気持ちには正直ならなかった。炎上の理由として、「モノを大切にしていない」だとか、「クリエイターへのリスペクトを欠いている」だとか、そういう意見はもちろん理解できる。

単純にAppleが好きというのもあるが、「これだけのものがこの薄さの中に」という、Appleが言わんとしている趣旨の映像表現というのは理解できるし、粉砕機でモノが壊される動画を、YouTubeでも見たことがあって、この手の映像に馴染みがあったとか、色々な理由はあると思う。

SNS上では、この動画を逆再生したものも載せられていた。たしかに、逆再生の方が、薄い1枚の板から無限に可能性が広がっていくというような、創造的なイメージを受けた。これなら批判は少なかったかもしれない。

さて、私が書きたいのは、この動画についての話ではない。あなたがこの動画を見て感じている気持ちは、本当に「あなた自身の本当の気持ち」だろうか、という話である。


ネットで買い物をする時には、それにぶら下がるレビューを見る。映画を観たり本を読む前に、批評を少し読んでみる。知らない飲食店に行く前には、レビューや写真で入念に下調べ。今となっては、至極当たり前のようにやっている人の方が多いだろうし、私もレビューなしで決めることの方が少ないのではないか。

評判が良いものを買ってみたら、良いものだった。面白いと言われていて観たら、やっぱり面白かった。人気のあるお店に行ったら、美味しかった。満足。

事前に評価が知れるのは、便利で安心で失敗も少ないけれど、その評価ありき、無意識に評価をなぞった感想になっていないだろうか。高評価ゆえ、事前の期待値が上がり、本当はどうだったのか、なぜこれが高評価なのだろうと逆のことも起こる。どうしても自身の目にバイアスがかかってしまう。


これは世の中の出来事についても同じ。例えば、𝕏(旧Twitter)でも、1つニュースを開いて、引用やリプライを覗けば、そのニュースに対する賛否コメントで溢れている。国民総批評家の時代。ニュースそのものよりも、それに対する意見のほうに先に触れてしまうことも多い。

実際に、前出のAppleの動画にしても私は、それが炎上しているというニュースで動画のことを知った。純粋に動画だけを先に見ていたら、批判的な感情はもっと生まれなかったかもしれない。

色々な立場の人が色々な視点で色々な意見を発信し、それに触れて視野を広げられる。SNSのとても良い面だと思う。ただ自らが発信する際、それは物事について考えるというより、意見を選ぶという作業になってはいないか。

本当に考えた結果、近い意見に賛同しているのなら問題ないのかもしれない。これは自戒を込めているのだけれど、どういう意見があるのだろうと、ニュース本体を読まずに、引用やリプライを先に見てから考えることを、ついやってしまう。同調圧力や周りの目を気にする日本人ならではとも、言えるかもしれない。

バンドワゴンに乗ったり、センセーショナルな見栄えのする意見に乗った結果、思考停止する、というような危険性は、強く意識しておく必要があると感じる。誹謗中傷や暴走が起こりやすいなどのSNSの特性も鑑みると、尚更である。

まずは記事を読んでみませんか?

と、ここまで書いた文章にも、自分の言葉がどれだけ入っているか、全くもって自信がない。私がいつかどこかで見聞きした、良い感じの意見や表現の寄せ集めでしかないのかもしれないのだから。

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