フェチとマス、敵情視察しながら刃を研ぐ

以下のマシュマロに対する、私なりの考えを書こうと思います。
考えながら書いていくので、ちょっと文章としてはまとまりが無い感じになってしまいそうですがそこんとこはお赦しください!

【編集前略】
私もジャンルはまったく違うのですが小さい頃から気づいたら表現の世界(ざっくり)にいて、最近よく悩みます。
というのはバランスで、それは大衆受けとマニアックのバランスです。万人に受けるようなものを作れば多くの承認と引き換えにどこかむなしさがあり、逆にとことん我が道を行けば気持ち良さはあるけれどその先の存続が難しくなるリスク(&偉い人の圧力)があると思うのです。
今まであんまり何も考えずにやってきましたがもう十代も終わるのでそろそろ脳みそを使わないとなと思い、今悩んでいます。フワフワした言い方ばかりで要領を得ない話になってしまったのですが、(お仕事に置換して考えていただいて構わないので)Zenさんならどう折り合いをつけるか、ちょっと教えていただけたら本当に本当に嬉しいです。
お忙しいとは思うのですがどうかよろしくお願いします。
【編集後略】

なるほどです。これは私もず〜〜〜〜〜っと考えながら生きてきているので、あくまでも私の考えですが、お答えさせていただきますね。

結論から言うと、我が道を突き進んだ方が、私はいいと思います。
それが何故かをこれから説明します。

私は絵の分野でこの議題についてずーっと悩んでいるので、絵の話で進めますね。質問者さんは、適宜ご自身の分野に当てはめて想像していただけると幸いです。(分野の違いでちょっと事情が違うこともあるかもしれませんが、そのへんは適当に読み飛ばしてください…汗)
そして、この質問を送ってこられたということは、恐らくですが質問者さんは表現活動を完全なクローズドの趣味(例えば自分で自分にアクセサリーを作って終わり、というような)では終わらせず、少なくとも発表したり、もしかすると仕事として将来やっていきたいと考えておられる……ということを前提として話を進めていきたいと思います。
もし完全にクローズドな趣味だったら、大衆にウケるかどうかなんて考えなくていいわけですしね。

まず、私が一番伝えたいこと「我が道を行くことと、大衆受けするものを追うことは、完全に別なことではない」ということです。
恐らく、我が道(フェチ)を行くと、大衆(マス)から離れてしまう…という思い込みがあるのだと思いますが、それは厳密に言うと誤りです。マスとフェチは混ざり合って、大きなマスを作っています。

わかりやすい例えを挙げると、例えば『ズートピア』という映画がありますよね。あの映画、動物のふさふさぁ〜💗モフモフゥ〜💗な毛を表現するために、動物の毛を顕微鏡で観察して、それぞれの動物ごとにちゃんと毛質を変えてモデリングし、毛根ももちろんモデリングし、さらに肌の下の血管までモデリングしたそうです。ワケが分からないレベルのフェチですよね。
でも、そのとんでもないフェチの結果、万人が「あぁ〜💗ふさふさぁ〜💗モフモフゥ〜💗」と感動する質感が生まれて、作品の中の魅力の一端になっています。

もう一つ、別の角度からの例を挙げます。私は以前、仕事で「凄腕の仕立て屋さん」のキャラクターを描くことがありました。そのとき、どういったことを考えてキャラクターを作っていったのか?
凄腕の仕立て屋さんということは、自分自身のスーツも完璧に着こなしているはず。最新のトレンドも取り入れて、格調高く、誰が見ても「この人にスーツを作って欲しい!」と思えるような完璧な着こなし…!
そこで私は、膨大な量のスーツの資料と知識を集めました。このキャラクターが世に出たとき、もしかするととんでもないスーツ好きの人がその絵を見て「なんだこのキャラ、凄腕の仕立て屋なのにこんなダサくておかしいスーツを着てる」ってガッカリされるのが嫌だし、恥ずかしいからです。
スーツが一番かっこよく見えるポーズ、スーツに合わせる靴、色のバランス、キャラクターの国籍でスーツの形も変わってきます……こんな「スーツフェチはここを見てるぞ」という内容をとにかく調べまくって、1つのキャラクターのビジュアルを組み立てていきました。

こういった作業が、「キャラクターデザインで仕事をする」ということです。この時、2つの大切なポイントがあります。
1つ目は、私がスーツフェチだったらこんな労力はかからなかったということ。
2つ目は、私はスーツではないにせよ他の強烈なフェチがあるので、スーツフェチの人の気持ちが分かるから頑張ってスーツについて調べようと思えたこと。
です。
この2つはとても大事で、私が「我が道を行くべき」と言う理由です。
何かのフェチを突き詰めているということは、間違いなく強みです。それに対しての知識や経験がすでに備わっていて、少なくともその一点においては超即戦力なわけですから。同時に、「ここで手を抜いたら誰かに笑われるぜ」というプライドみたいなものを、フェチはちゃんと知っている。スーツフェチの人が、「スーツにこだわりがある」という設定なのにバカみたいにダサい間違ったスーツを着てるキャラを見せられたら、は???って鼻で嘲うと思います。
めちゃくちゃスーツ好きな人が私の絵を見ているかもしれない。その人をガッカリさせたくないし、その人にくだらない絵を描く奴だと思われたくない。私はここまでこだわれるんだぞ!というプライド、それを忘れなければ、どんどんたくさんのものを吸収していって、最終的に「こいつ、何についてもフェチレベルで知ってやがる…!」というフェチの塊になれます。これ最強です。


さて。少し息を抜きつつ、もうすこし景色を鳥瞰してみると、確かに「何でこんなにつまんねーもんが世間一般では大人気なんだよ」ってモヤモヤするマスと出会うことって多々ありますし、その気持ちとても良くわかります。

そんなときに有効なスタンスは「マスという敵情を視察する」という感覚です。その時どういったものが流行っているのか。何がいまウケているのか。それは一過性のブームなのか、それとも今後のスタンダードになるのか。
「あのしょうもねぇモン、人気あってムカつく」というモヤモヤは一端置いて、静かな目でそれらを観察します。すると、案外得るものがあります。

「流行っている」ということは、「多くの人から嫌悪されていない」という状態だと私は思っていて、その肝は何なのかは表現者である以上つねに探っていくべきだと思っています。今流行っているテイスト、目の描き方、色の塗り方、影の付け方…時間があれば、それらを一度自分でもやってみるといいと思います。そして、さらに時間があれば、その中に、自分のフェチをこっそり入れてみた絵を描いてみます。これを私は「毒を盛る」と呼んでいます。
このマスとフェチを混ぜていく練習をすると、自分の中でフェチが純化していきます(例えば自分の絵柄でケモミミをずーっと描いてきた自称ケモミミ好きが、流行の絵柄でケモミミを描いてみたときに何か強烈な違和感を感じる場合、その人のフェチは「自分の絵柄で描いたケモミミ」の中にあるので、厳密には「ケモミミという概念」に対するフェチではなかったことになります)
そんなふうにフェチとマスを行き来して手数を重ねることで自分のフェチが研ぎ澄まされますし、世の中に受け入れられる形でフェチをこっそり混入させるコツも掴めてきます。また、マスという非常に流動的でつねに変化し続けているものをちゃんと追いかけることで、自分のセンスが老化することも防げる
また、流行の中には、先人がこっそり仕込んだフェチが気づかれないレベルで染み込んでいる場合も多々あるので、マスをじーっと観察していると突然その誰かが仕込んだ新しいフェチに自分が目覚めてしまうということも多々あります。これがまた超楽しい!!

そんな感じで、マスを嫌悪するだけじゃなくて、マスの中に潜んでいる誰かのフェチを見つけ出したり、万人にウケるための方法論をこっそり盗む……そういった楽しみ方でマスにも触れてみると、とても良いと思います。


最後に。
じゃあ何故わたしが最初に、マスのお湯に浸りながら我が道を見つめようと言わず、我が道を行くべきと言ったかというと、我が道がある人は少数派だからです。
考えてほしいんですが、強烈なフェチがある人がマスっぽい(流行ってる感じの)絵を描くするのと、ふらふらとその時々のマスだけ追いかけてる人が何かしら強烈なフェチを感じさせる絵を描くのと、どっちが難しいと思います?明らかに後者じゃないですか?
マスっぽい絵を描くのなんて、研究して方法論さえ掴めば比較的カンタンに習得できますが、「強烈にコレが好きだ!!!!」という情熱は、自分の心の奥底からしか湧いてこないです。大切にしてください、フェチ。我が道。

長くなりましたが、そんな感じです。マスという敵情を視察しながら、フェチという刃を研いでいきましょう!そして、こっそり忍び込んで、スッ…と刺していくのです。刺された人は、次のそのフェチになります。フフフ…💗


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