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インドの国章───これはアショーカ王の獅子像だ───を制定したのもアンベードカル

その道の一流になっていく人は、人生を棒に振っている人です。ほかのことは、全部手放しています。

インド国旗───その中央には仏教のシンボル「法輪」が描かれている───やインドの国章───これはアショーカ王の獅子像だ───を制定したのもアンベードカル

バムセフ幹部には独身者が多い。カンシ・ラムも独身である。運動に貢献するには独身の方がいいということなのか? それだけ仕事に専念できる、という信念に根ざしているようだ。「そうですね。僧衣を着ていない坊主みたいなもんですよ」と自らいい、ふ、ふ、と小さく笑う(中略)カンシ・ラムはバムセフを設立するにあたり一生独身主義で通すと公言しており、バムセフの古手には独身者が多い。メンデ氏もその一人である。人びとは彼らの青春をカンシ・ラムと共に働き、捧げることを誓ってきた仲間なのだ(中略)メンデ氏はいう。世間では長い間独身主義で通ってきたし、そういう運動家をかっこいいと感じるインド的風土がある(中略)日本以外の仏教国は昔から本来妻帯しない。これが仏教国者の原理・原則なのだ。日本はそういう意味で特殊な仏教国(中略)人間は一度目覚めれば後戻りすることはありません。どれほど自分たちがブラーミンの思想によって盲目にさせられてきたか(中略)ある時からそのことに気づき、(※アンベードカル)博士の著作を猛勉強しました。そして、ヒンズー教の教義、神聖な神の言葉や前世の定めなどというものは “神” が作ったものではなく、ブラーミンがこしらえたものだということがはっきりとしてきたのです───バムセフのバハル氏(中略)あらゆる種類の迷信と儀式を否定したアンベードカルにとってとくに重要だったのは、仏教が無神論に近い宗教だったことだ(中略)激しく対立したガンディーとは違って、アンベードカルは現代科学やテクノロジーを受け入れることと、帝国主義の支配に抵抗することの間に何の矛盾も感じなかった(中略)不可触民を最低の社会的奴隷から〝人間〟の位置に引き上げたのはガンジーなんかではなく、アンベードカルなのです。この事実を隠すために支配階級は全力でアンベードカルの存在を無視 ※引用者加筆.

ガンジーの断食中、幾つかの寺院が不可触民に門戸を開放したと伝えられた。 しかし、アンベードカルはそれらのガンジーへの同情と指示を表明するために解放された寺院は荒れ果てた廃寺や実際にはありもしない寺ばかりであったといっている。しかもこのような名ばかりの解放寺院の中に、ガンジーの生まれ故郷であるグジャラート州の寺はひとつも見当たらなかった。その当時も、そして今日に至ってもである(中略)ガンジーにとって不可触民制の廃止は、建前にすぎず実際行動計画ではない。ガンジーは不可触民の解放者でもなければ救済者でもない(中略)一九四七年四月二九日、制憲議会は、「いかなる形における不可触民制も廃止し、不可触民への差別は罪とみなす」という宣言を行った。世界各国の新聞はこぞってこれを賞賛した(中略)全世界の新聞は、このことをガンジーの勝利と誉め称え、アンベードカルの名を挙げるものはひとつとしてなかった(中略)あたかもガンジー一人が不可触民解放者であるかの如き歴史のねつ造を行ったのである(中略)アンベードカルの声は、改革主義者たちが被抑圧階級の心の琴線にふれることなく上っ面だけを撫でたにすぎぬのに較べ、人びとの心の内側から揺さぶり、外へ向けて迸らせた。ここにアンベードカルと他の社会改革家たちとの決定的な相違がある

紀元前三〇〇年から二〇〇年のマウヤリ朝の時代に、すでに『アルタシャーストゥラ』(実利論)という政治教科書が書かれている。マウリヤ朝のもっとも有名なアショカ王は仏教徒で、おそらくインド史上最大の支配者(※アショカ王)※引用者加筆.

全力で取り組むことは、他のあらゆることを犠牲にして長期間にわたって努力し続け、ずっと成果がなくても努力し続ける覚悟をすることである

活動家というのは、突き詰めると、営利打算とか、お金の問題を気にしないで、“人生を棒に降る” ことができる人間のことをいう。そこが企業にいる人々とは違う。自分の損得勘定を全部振り捨ててやる───副島隆彦氏(著書名失念)

釈迦の死後百年から二百年ぐらい後に、インドにアショーカ王という王様が登場し、インドの北部周辺の40ヶ所以上の場所に、岩石に彫った碑文を残しました。そのうちネパールのルンビニというところにある石碑に「ここはお釈迦様が生まれた場所だから、税金を六分の一に負けてあげるよ」という内容が彫ってあることがわかりました。

釈尊が亡くなった後、その教えは400年もの間、伝言ゲームのごとく伝播され、グループ(部派)に分かれた仏弟子がそれぞれ勝手な解釈をするようになった。そこでブッダの教えがバラバラにならないようにするため、「結集」と言われる宗教会議が行われた。伝承によれば、1回目の結集は釈尊の滅後すぐ、2回目は約100年後に行われている。その都度、弟子たちは教義について議論し、教えの内容を確認したはずだが、紀元前250年頃に行われたとされる「第3結集」では、それぞれのグループの記録はすでに異なっている。そのとき議論されたトピックのひとつは、「阿羅漢と言われる完成された修行者が夢精するかどうか」───。こんな些細な問題を仏弟子たちが大真面目にディスカッションし、それぞれのグループは自分のポジションを譲らなかった。時代は紀元前3世紀、まだキリストがこの世に生を受ける前だ(中略)この頃のインドは、アショーカ王によってほぼ統一されていた。王は、それまでの残虐な戦争を反省し、仏教に傾倒し守護したと言われている。そして、インド国内やスリランカにとどまらず、遠く、シリアやエジプト、ギリシアにまで仏教の宣教団を送った(中略)そして、釈尊の教えがようやく文字で書き留められたのは、紀元前1世紀のスリランカで行われた「第4結集」のときである。しかし、この会議に参加したのは、上座部仏教(テーラワーダ)の比丘(修行僧)のみで、大乗仏教では紀元後2世紀頃に北インドのクシャーナ朝で行われたとされる別の会議を「第4結集」と呼んでいる(中略)前章で、パーリ仏典の『起世因本経』と旧約聖書の『創世記』の類似についてふれた。この場合、相互に影響し合ったというより、お互い共通したテキストを下敷きに、それぞれ発展させたと考えられる。それより時代は下って、新約聖書と大乗仏教の教典にも多くの類似点はある。例えば、新約聖書と『法華経(※永遠のブッダの物語)』の双方に、ある息子が異邦の地をさまよい、ようやく父と再会する物語がある(聖書では「放蕩息子」と言い、『法華経』では「長者窮子」の比喩と言う)。こちらの場合は直接影響を与えた可能性もある(中略)一神教の神が「阿弥陀如来」として仏教に顔を出したわけだ。※引用者加筆.

相手を意識して虜ることが大切になるのは、パワーを得るにつれ、他人の意思を読み取る能力が低下することが実証されているからでもある。偉くなると他人の顔を見ることが少なくなり、見ても相手の情報を真剣に汲みとろうとしなくなる(中略)互いの理解を深めるためには、相手にも相手の人生があることを知らなければならない。私たちは、相手の人生の出来事にもっと神経を使うべきだ(中略)スター・ウォーズのヨーダは言っている。「やるか、やらないかだ。試しなどいらん」

『スター・ウォーズ』のヨーダも、長生きでいつも落ち着いていたが、それもある理由のおかげだった。後進を育成することは幸福につながる。

「ダーク」とは何も知らないことを婉曲に表現した言葉

「精神」とは情報空間(中略)いうならば、「フォース」の使い方(中略)精神エネルギーとはそういうこと

チベット密教の生まれ変わりを例にすればわかりやすいと思うけど、生まれ変わりってあれはアートマンが生まれ変わったわけじゃないのね。アートマンがやった縁起を次の人が継いだから生まれ変わりっていうの。大切なのは縁起を継続するってこと。アートマンは死ぬけど、縁起は止まらない。自分がやったことの玉突き運動は永遠に続くわけで、玉突き運動にこそ永続性があるわけだ。だからこの世が四次元であると “分かった” 四次元人は、社会に対してなんらかの影響が残ることをする

ディズニーはよく、好んでこう質問した。「どうして大人にならなくちゃいけないんだね?」

大ヒット映画「ガタカ」が描いた完璧な遺伝子を求める近未来は、どことなく過去の優生学運動を彷彿させた(中略)大規模な遺伝子科学の始まりには、戦後の広島と長崎の被爆者研究が少なからず起因していたため、この分野は放射線による悲惨な先天性以上や疾患と結び付けられて考えられるようになった(中略)(※ベテランの訴訟弁護士クリス・)ハンセンはACLUのナショナルリーガルスタッフであり、その中でもひと握りの特定任務を負わない───つまり自分が最も重要だと考える案件ならどんなことでも、権限と予算を行使して追求することのできる在野の戦士、ジェダイ・マスターだった。ハンセンは言う。「私の仕事は、この国のどこか、どんなところからでも、不正義を探し出してくることでした。テーマとする領域に制限はなく、地理制限もありません。見つけるべきは市民の自由に関連する不正義であり、その解決策を考え出すのが責務でした(中略)現在八八歳になった(※ロバート・W・)スウィート判事は文明の利器に感謝していた(中略)スウィート判事は、普段と同じように、朝の始まりをスカイリンクで過ごした───その広大な室内アイススケート場からは、ハドソン川が一望できる。驚くほどの才能をもった未就学児から、スウィートと同じくらいの年長者までが、ハリー・ポッターの楽曲やアンドレア・ボチェッリに合わせて滑りながら、乳白色の氷で被覆された眼下の川を一瞥している。スウィートは、旧ソ連のオリンピック選手であるトレーナーの下、新しいダンスの型に取り組んでいた。九〇歳にもなろうという老紳士が、このような娯楽に興じているのを好奇の目で見る人もいたが、スウィートは屈しなかった。ヘルメットを被り、膝当てをして滑る彼は、氷上で大きな怪我をしたことはない。しかし何よりも、彼にとってスケートは健康を保つだけでなく、審理や動議が行われる長い一日の始まりに、頭脳を明晰に保つために最適な方法でもあった ※引用者加筆.

一流ではなく、超一流を目指しましょう。



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