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松坂桃李くんの夢ばっかり見てる“しょーもない”女子大生が映画『ピンクとグレー』を観てきた話

次の日にみる映画に興奮しすぎるなんてことが今までなかったから結構楽しんでいるのだけど、今日『ピンクとグレー』を鑑賞してきた。

【振り返り】
きのうのnote
あした「ピンクとグレー」をみにいくので原作おさらいしてみた
https://note.mu/walnut09/n/n8222c4d2aa84

今朝は7:00〜松坂桃李くんと菅田将暉くんと太賀くんが出演するということでわたしの中で話題だった「ボクらの時代」が放送するということで、いつもの日曜日よりもめちゃくちゃ早くに起きた。
内容は書き出すと長くなってしまうのでとりあえず置いといて、7:30に番組は終わったものの、映画は11:40の回だったので二度寝したところ、松坂桃李くんが夢に出てきた。なぜか私は桃李くんではない他の男の子どもを妊娠していてパニックに陥ったところで目が覚めた。夢の中で妊娠ってこわい。

数ある映画館の中でも私が一番ポップコーンが美味いと思うTOHOシネマズの新宿で友達と待ち合わせて、5〜6年ぶりくらいに映画のパンフレットを購入していざ出陣(鑑賞)

鑑賞後すぐに思ったことをメモらないと最近は3歩あるくと忘れてしまうので即感想を書き起こしておいた。この感情を真空パックにぶち込んで保存しておきたい!(何かの小説で読んだフレーズ引用)

これ以下はネタバレ含みますのであしからず〜〜

ストーリーの再構築】
原作では、
A:ごっちが死んでしまうまでのストーリー
B:りばちゃんがごっちの死んだ理由を知るべく追体験するストーリー
と、大まかに2つに分けられる。
Bでは、りばちゃんは死んだごっちのドキュメンタリーノベル(原作でりばちゃんがそう表現している)を執筆し、ごっち=白木蓮吾役を演じることで追体験をする。その中で徐々に自分自身を見失い、ごっちと同化していく様子が疾走感をもって描かれている。ここは本当にイッキ読み。
公開前からたくさん出ているインタビューで行定監督は「ストーリーをそのままなぞっても原作を超えられない」と言っていたし、「62分後の衝撃」というキャッチコピーもあったので、どうなるのか楽しみにしていた。
実際に映画では映像的順序に変化はないものの、Aは「劇中劇」として前半で扱われているため、時間軸を基にしたストーリーの進行で言えば映画が始まった時点で既に本物のごっちは死んでいる。つまり、りばちゃんがごっちを演じるBの追体験映画が前半部分を占めているのだ。では後半はどうかというと、ここは小説では描かれていない新しい時間のC部分と言ってもいいと思う。
Cという時間がひらかれたことによって、原作では死んだごっちとりばちゃんそれぞれが主体となる文章が入れ替わりながらやや複雑に描かれていた追体験の様子が、より丁寧に行動を伴って描かれていた。

【テーマとこたえ】
この構成になったことで、りばちゃんが追体験の中で初めて知るごっちという部分が強調され、最終的に行定監督が映画のテーマとして設定したと思われる結末に行き着く。
わたしはここで描いているテーマは、原作者の加藤シゲアキ先生が出題した“小説”という名の問題に対して、行定監督が出したひとつのこたえとしての『ピンクとグレー』なのではないかと思った。というのも、原作の中には様々なメタ表現がちりばめられているので、ひとつの小説ではあるがテーマを様々な角度から切り取ってみることができると思ったから。
例えば、ごっちが作詞した「ファレノプシス」にある『それは、男?それとも女?』『じゃあ女』という歌詞と、ごっちが自殺する前夜にりばちゃんに話した「オニアンコウはオスが生殖活動は続けながらメスに寄生する」という2つを取っても、ごっちとりばちゃんはお互いが影響しあって生きていることのメタ表現としてとることができる(わたしは何回か読んでそう感じた)
なんでも知っていると思っていた親友だけど、突然死を遂げた彼が“なぜ死んだか?”が分からずに無我夢中で追っかけ体験をするうちに、本当の意味での彼のとこを何もわかっていなかったことに気がつく。また、最後に知ったところで既に決めていた運命を変えることができなかったであろう、と悟るりばちゃんから出てくる言葉が「しょーもな」なのである。これは「なぜ死んだのか?」という到底理解できない回答が待っている疑問を解き明かそうと、必死でごっちを追いかけていたりばちゃん自身にもあてた言葉だったんじゃないの?と思った。
彼を突き動かしたのは、まさに「それは恋とか愛とかの類いではなくて」と表現された感情なのだ、と改めて理解した瞬間震えた。

わたし自身は、鑑賞したものに対する解釈が合ってるのか間違ってるのかっていうことをすごく気にしがちで、人の感想を知りたくなっちゃう派の人間(と自分は思っている)なのだけど、この作品に関しては、ここはこういう解釈なのかな?いや、こうかな?っていう自分の考えがいくつかあった上で、人がどう見てるか、が気になっていた。
だから、前述したように「映画=行定監督自身が出したひとつの解答としての『ピンクとグレー』なんだ」って思った瞬間、合ってるとか間違ってるのを気にしていた自分も“しょーもなっ!”と思えてしまった。笑
そういった意味で、個人的にはストーリーのひとつの主題に、自分の変化を通して共感することができたのだ、とつい鼻息荒くなってしまった。

6つの遺書】
原作でも映画でも登場したこの6つの遺書だが、前述したように「これはあくまで行定監督が出したひとつのこたえ」だと理解(あくまで個人的)した途端、「待てよ?!つまりは、あの遺書自体もある種メタ表現であって、1つ選んだ遺書が異なっていたら別の展開もあり得たのか?!」という考えがよぎった。
急いで持参していた原作本のページをめくり読み返すと、6つの遺書の内容こそ明記しているものの、りばちゃんがどれを選んだのかは詳しく書かれていないのだ……さらに映画の最後でもホンモノごっちこと柳楽優弥くんが「選ぶ遺書を間違えたんじゃない?」的なことを言っていた(細かく思い出せない)こともそれを予期させているように思えてならない……
シゲアキ先生はこれも想定した上でこの処女作を執筆していたのではないか?と思うと、末恐ろしささえ感じる。

まだ公開になったばかりだが、何年か経って他の監督がリメイクし、今はまだデビューもしていない未来の中島裕翔が初主演映画として抜擢されて新たな解釈の「ピンクとグレー」が生まれてしまうかもしれない、と勝手に想像を膨らませると、映画公開によって「ピンクとグレー」というストーリーが完結してしまったという寂しさが途端に逆転してしまうから不思議だなあ。

おまけ
この行定監督のインタビュー読むとまた1歩解釈が変わりそう
http://m.mantan-web.jp/article/20160110dog00m200002000c.html

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