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まあええか…

 今夜は、カーソルが進まない。
頃合いに離れたところで、マスク越しの言葉を聴き取り、入力してくれているSくんには本当に申し訳ない。進んでは戻りならいいけれど、「ごめん、全部消すわ」をくり返している。
 一時間ほどかかって、「やっと、五行かぁ…」という感じだ。
ぼくは、筋立てて理詰めに書くことがとても苦手だ。思いつくままに進めておいて、最後に構成する。

 そう、だから、いま、タブレットの画面から何となくSくんに眼をやったら、その向こうの窓際に干してあるシーツの乾き具合が気になって、そのことを書いてしまっている。

(突然、エンジンがかかってきた)
 去年の暮れ、三十年ほど消息しれずのIくんが亡くなっていたことを友人から聞いた。彼はぼくよりもずっとやり手だった。同じように日常生活のほとんどすべてに介護が必要だったにも関わらず、住み込みボランティアと暮らしながら大学の聴講を受けつづけたり、女性と駆け落ちの末に同棲したり、田舎町に作業所を立ち上げたりしていた。

 その夜、介護の若者も交えて飲み明かしていた。唐突に彼が切りだした。
「ぼくには叶わない夢があってな、それは銀行強盗を仕切ることなんや。もちろん、できるはずないけどな」
「障害者にも悪党がいていいよな」
 酔いに顔をすこし赤らめながら、苦笑いとため息をブレンドさせていた。
それは、ぼくが世間の人から感じ取るもどかしさを彼らしく言い表していた。

誰だって、一人の中に善と悪を合わせもっている。
 ぼく自身も、当事者に対しての上から目線の言葉や態度に怒ることもあれば、逆の立場にいることに気づいて、落ち込んでしまうときもある。

 一人ひとりが抱えているさまざまなカテゴリーを越えて、相手を思いやろうとする気持ちや、ベストを尽くそうとする純粋さと同じように、自分自身もふくめた弱さや後ろめたさを認めあえれば、すこしは温かい時間が過ごせるようになるのではないだろうか。

 この間、古いつき合いになったヘルパーのHくんとこんなやりとりをした。洗濯を夜のうちにすませるか、どうかを相談しているときだった。
 ぼく、
「今日のうちにやってしまわないと、明日はいろいろと忙しいしなぁ。洗濯物が溜まったら、干すとこあらへんしなぁ」
 Hくん、
「でも、そんなに焦らんでも、分けて洗ったらええだけちゃいます」
 ぼく、
「よう考えたら、そうやなぁ。ええ加減でよいわなぁ」
 Hくん、
「十年ほど前、よう聞いた言葉ですなぁ。『ええ加減でよいわなぁ』って」
 ぼく、
「そうかぁ、そんなに生き急いでたかなぁ」
 
 マニュアルだらけの世の中に窮屈さを感じながら、実はぼく自身の気持ちがコチコチになってしまっていた。
 あれから一週間ほど経った。ヘルパーさんに想いどおり動いてもらえなかったり、焦っている自分に気づいたりしたら、伝家の宝刀を出すことにしている。
「まぁええか…」
 どんなに苛立っていても、このつぶやきで心がしずまる。

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