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下町のスーパーにて

 「思いこみコロナ」のおかげで、ずっと通いつづけてきた作業所と疎遠になり、毎日のように昼ごはんを調達しに行っていたご近所のスーパーマーケットにもすっかり顔を出さなくなった。

 この間、作業所のスタッフから電話が入った。
「お昼から人手が足りへんから助けにきて」
 ぼくはすぐに快諾した。
「コロナ疑惑」の葛藤の日々から解き放たれてからも、容易にはもとの生活に戻ることができないまま、三ヶ月くらい経過していた。

 ずっとベッドに寝たきりで過ごしていたので、いざ車イスに座ろうとすると、すぐにお尻や腰が痛みはじめた。最初は簡単にクリアーできるだろうとタカをくくっていたが、還暦をすぎた体は思うようにぼくの期待に応えてはくれない。

 以前は、朝から晩まで十二時間ぐらいは普通に乗り続けていられたのに、車イスの座面の工夫をしたり、マッサージの得意なヘルパーさんに全身をほぐしてもらったり、かかりつけの病院に受診したりもしたが、意識を失いかけたマラソンランナーのように、状態は行きつ戻りつしていた。

 ということで、久々に作業所へ向かった。
 お尻と腰の具合もすこぶるよかった。案ずることはなにもない。アタマの中は、ご近所のスーパーの昼下がりの風景でいっぱいになった。

 このスーパーは他の大手と比べて、断然コストパフォーマンスが高い。新鮮なネタのにぎり寿司セットや、炭焼きの香ばしさが強力な親子丼など、思わず笑顔になるメニューの数々が500円前後で手にはいる。おまけに、季節のメニューも豊富にならぶ。
 
 この店舗には、ぼくの心をとりこにしてしまうもう一つのここだけにしかない魅力がある。
 それは、店員Yさんの存在だ。ぼくは、ひとりで買い物をすることも多い。電動車イスが運転できるだけで、商品を手に取り、籠に入れることも不可能だし、支払いからトートバッグに入れるまで、店員さんにお願いしなければならない。
 毎回、インフォメーションへ行き声をかける。もう常連なので、大方の店員さんは、他のお客さんや商品に車イスがぶつからないように、心配りしながらすこし先を歩く。
 
 ところが、Yさんの対応は初対面の日からまるっきり違っていた。
 仕事柄の笑顔であいさつしてくれた彼女は、他の人たちと同じようにインフォメーションからほどないところにある惣菜コーナーまで案内してくれた。
 
 しばらくして、彼女の態度があきらかに変わった。
ほかのお客さんや積まれている商品に視線を送ることなく、インフォメーションであいさつした時とはまったく別の安心感満載の笑顔になった。
 そして、ぼくの好みをたずねたり、彼女自身のイチオシを目の前に差し出したり、まるで常連客への接しかたにマイナーチェンジした。

 彼女に訊ねてみた。
「ぼくの運転は心配じゃないんですか?」
すぐに応えが返ってきた。
「お客さん、なかなかの腕前だとわかったんですよ」

 うれしかった。

 世間の多くの人は、上体を傾けながらねじれた手足を硬直させて、電動車イスを運転するぼくの外見に注目する。そして、いろいろな危険を防ぐための心遣いをしてもらえる。
それは、まったく間違ったことではない。マニュアル通りの正しい選択だと思う。

ぼくは若いころから、障害者と健常者の間には壁は存在しないと考えてきた。
 カテゴリーではなくて、あくまでも個人の問題だと思いつづけていた。
ずっと施設や養護学校で、よき理解者に恵まれて育ったからだろうか。
 
 三十代に入ったころからか、たしかに相対的な壁を感じるようになった。
どんな人間でも、自分の経験にもとづいて毎日の行動のための判断があり、価値観が育まれる。
 日常生活のひとコマひとコマに他人の手を借りなければならなかったり、特別な目で見られつづけたりすると、独特な孤独が生まれてしまうのだろうか。

 これまで出逢ってきた障害者の多くから、共通した臆病さと孤独を感じる。
 具体的に言えば、トイレで他人に介助などされたくはないだろうし、食事も自分のペースで味わいたい、そんな当たり前の部分で、他人の手を借りなければならないことはとても大きい。
 知らず知らずのうちに媚びてしまったり、そういう自分が許せなくて必要以上に頑固になってしまったり、現れかたはそれぞれでも、根っこには同じものがあるのではないだろうか。
 
 世間の人たちも、役所の人たちも「福祉」を語るとき、決まり文句のように心のバリアフリーを口にする。
 たしかに、ここでぼくの伝えたいことのほとんどは外見ではなく、内面を重視した関係性に他ならない。
 
 しかし、それほど軽々しく心のバリアフリーを連呼してほしいわけではない。
 ぼくにとって、他人の善意はもどかしさや鬱陶しさを伴う場合が多い。
相手に何かの代償を求めたり、その行為をすることで自身の評価を高める目的があったりすると、善意は表面上だけになり、まったく正反対の憂鬱を与えてしまう。
 無償の愛は難しい。ぼく自身も、おせっかいをしていることに気づく場面が日常的にあり、自問自答を繰り返す。
 
 なぜ、Yさんはぼくの外見に執着せずに、心を読み取り案内することができたのだろうか。お茶でも飲みながら、ゆっくり聴いてみたいところだ。
 
 空模様を案じながらヘルパーさんと店内に入ると、ひそかな期待どおりYさんの元気な声がレジの方から聞こえてきた。急いで惣菜コーナーへ向かう。
 たまに、Yさんのレジに並んでいると、一人か二人前のお客さんで交代になることがある。目にとまったにぎり寿司セットと黒蜜のところてんをヘルパーさんにかごに入れてもらい、Yさんがどこにいるか探す。

 元気な声が移動していたので、お客さんの対応か商品の整理をしているのかとすこしガッカリして、適当に列に並ぼうと思っていたら、通りすぎようとしたレジに明かりが灯った。
「レジあきました。こちらへどうぞ。」
ぼくは反射神経よく、90度回転して、スッと車イスを横付けた。
 「あら、お久しぶりです。お元気でしたか?」
 それほど混んでいなかったので、かごの中の商品の値段を確認するよりも先に、満面の笑顔と明るいあいさつからやり取りが始まった。商品を手に取りはじめても会話は止まらない。
 「近くに引っ越すから、毎日来ますね」
 ぼくの言葉に、
「うれしい。待ってますね」
会話の間も手は止まることなく、ヘルパーさんが小銭を出すのを手間取っていると、トートバッグに荷物を入れてくれた。

誰もが心のバリアフリーを実現できるわけではないと思った。

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