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「ない、ない」づくし

 夏だというのに、「食欲がない」。
 ナスビ、トウガン、シシトウ、モモ、パイナップル、イチジク、ハモ、スズキ、イワガキ、単に食材だけでも挙げだすとキリがないほど、ぼくは暑くなると旬をむかえるものに大好物がひしめき合っていた。
 おまけに、七月生まれが関係しているのか、どんどん髪が薄くなり、熱中症を気遣う年齢になっても、風通しの悪い電動車いすでどこまでも歩きつづける体力をもっていた。

 もう一度、食の話にもどると、素材だけでも数えきれないのに、それぞれにさまざまなメニューのレパートリーを携えているものばかりだ。

ところが、何やら毎晩のように胃袋のあたりからあやしい信号が発せられることが頻繁になった。昼ごはんを減らしても変わらない。揚げ物を避けて・・・と続けようと思ったら、意識しなくてもあっさりしたものしか口にしていなかった。

「食欲がない」は体調を案じるよりも、食べることに執着という言葉をつかっても大げさではないぼくの暮らしの意欲から、大切な要素を消去させる可能性をもっている。
自分自身の一年遅れの還暦祝いにお取り寄せしたパイナップルが、丸々一個冷蔵庫で出番を待ち続けている。
 世の中が落ちついたら、検査にでも行こうか。

 洗濯物が「乾かない」。
 この話題は「車いすからベッドへの旅」で書き尽くしているから、以上。

 実はおととい、「ない、ない」で書こうと思っていて「時間がない」状況に陥ってしまった。
 リハビリの先生からは「無理はしないでくださいよ」とお達しを受けながら、夜の会議で「腰が痛いので、ぼくはこのへんで」の一言が「言えない」状況になって、「帰れない」ままがんばり通してしまった。
 だから、泊まりのヘルパーさんに精魂込めてほぐしてもらっていたら、書く時間がなくなってしまったというわけだった。

 「○○○ない」と表現するとき、ほぼ八割程度は否定的な内容になってしまう。
 おとといの深夜にカーソルを止めたとき、「○○○ない」があと五つは続けられそうだった。けれど、記憶の闇に紛れてしまい、もう掬いあげることができない。

ただ、「結」だけは憶えていた。

 沖縄民謡の唄い手、大工哲弘さんはなつかしい歌謡曲も数多くカバーしている。
 久保田真琴プロデュースのアルバム「BLUE YAIMA」で、「悲しくてやりきれない」を唄っていて、数えきれないミュージシャンのカバーのなかで、もっとも悲しみを湛えているように聴こえるにもかかわらず、すべてを包みこむまぶしさが伝わるようだ。
 
 先にゴタクをならべてしまったけれど、原稿を書きはじめようとしたら、ぼくの気持ちを察するように大工さんの「悲しくてやりきれない」が流れはじめた。
 こんなに救われる「せつない」唄は、ぼくのなかではこの世に「存在しない」。

沖縄を想う。


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