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一人ひとりの暮らしかた

 二十五年間、介護をする人たちと文化住宅の一室を借りて生活を続けてきた。
 長かった施設生活から街での暮らしに変わり、心にのしかかっていた重圧から解放された。
 施設では、いつも自分の起こした失敗が他人の責任に転嫁されることに、怯えながら生きていた。

 雪の降るなか、スタッフの目を盗んで外へ出て体調を崩したとしても、ぼくに責任は問われない。たまたま、出勤していた誰かの行動が問題にされたり、施設の体制に矛先がむけられたりする。
 
 いくら集団生活をしていても、突きつめていけば一人ひとりとの関係に行きつく。
 あの顔この顔が思い浮かべば、納得いく結果を求めにくくなる。
「あんなやさしい人に迷惑をかけられない」というような善良な意識が働くこともあれば、「みんなに嫌われたくない」というようなあまり言葉にしたくない場合もあった。

 街のそこここに段差があったころ、ぼくは何度となく車いすごと転倒した。トイレが間にあわなくて、泊まりのボランティアさんが来るまでビショビショのままで過ごした日もあった。
介護する人たちの中には、経験を重ねても簡単には上達しない場合もあった。
 毎日のようにやって来るハプニングと向きあいながら、いろいろな工夫をしたり、ときには開き直りも交えたりして、暮らしのやりくりをしていた。
 思い返せば、記録を残されない解放感は半端ではなかった。

 経済的な支えが皆無な中で、障害者とその周りにそれぞれの出逢いと想いを抱きながら集まった健常者。
 ただ、生き延びるだけであれば、施設で暮らせば安全は担保される。
その安全を拒んでも、手にしたい一人ひとりの描いた自由(生き方や生活のかたち)があった。
 実際、ぼくがひとり暮らしをはじめる前年に阪神大震災があり、友人の障害者も文化住宅が半壊になったという。

 いま、ぼくはほぼ二十四時間ヘルパー制度の中で生活している。
ヘルパーを派遣されている事業所とは古いつき合いだし、もともと障害者があたりまえに「まち」で生活することをめざした考え方の人たちが立ち上げたので、一日一日の組み立てやその場その場の判断は任せられている。
 たとえば、開始時間も、終了時間もとてもアバウトだし、当然のように受けとめてもらっている。

 二十五年前と比べれば、ぼく自身の体調も変化してしまった。
一日の大半を自宅で過ごすようになり、ヘルパー一人ひとりとの関わりが密になった。
 長時間、車いすに乗れなくなったり、物忘れがひどくなったり、ヘルパーがカバーする部分もずいぶん大きくなった。

 ときどき、ぼくは苛立ってしまう。
仕事として、ヘルパーはわが家を訪れる。ぼくは、生活している以外になにもない。
 制度の枠組みとして、支援者と利用者がある以上はフラットな関係を築くことは難しいし、毎日の記録やさまざまな書類作成を重ねていれば、なおさら立場は区別される。
 仕事に責任は切っても切れないものだし、記録や必要な書類作成を全否定するつもりはない。
 とくに、精神的に不安定になったり、物忘れがひどくなったりすると、すべて委ねられると危うさも感じるようになった。

 一方で、ストレスがたまり気持ちが落ちこむと、「個別支援計画や毎日の記録を書かれるのなら、施設で暮らしているのと同じや!」などと思ったり、「施設のほうがひとりの時間をつくりやすいし、田舎に戻りたい!」などと感情的になったりする瞬間がある。

 これまで、この苛立ちの根っこに向きあうことを避けてきた。
事情はさておき、ぼくは自由を手にするために施設を出たのではなかった。
ひとり暮らしをはじめて得た解放感は、その瞬間、瞬間に実感したことだった。
 それに、ずっと家族が介護してきて、それができなくなり、施設の存在によって生きつづけられた場面を何人も見てきた。

 最近、考えるようになったことがある。
根本的に障害者の生きる場としての入所施設を認めるかどうかは、重要な視点かもしれない。
 けれど、そのほかの暮らしかたが実現できてさえいれば、それですべてが解決したような勘違いがうまれるのなら、もっと危険な状況が起きてしまうのではないだろうか。
 いくら「まち」でひとり暮らしをつづけているとしても、自分自身の選択ではなく周囲からの威圧によって毎日の生活が成り立ってしまっているとすれば、本末転倒ではないだろうか。

 支援者からみれば、障害者一人ひとりに対してより具体的なノウハウが提示され、真剣に努力するほどに変化が確認できれば、それが正しいと思ってしまっても仕方がないのかもしれない。
 だが、その焦点が障害者に集中すると、社会のあり方など二の次になってしまう。

 支援区分の判定基準なども、「できること」や健常者側からみた支援者の物差しではなく、障害者自身の意志が反映された内容に変えられていくべきだろう。

 障害者の仕事の分野でも、「ともに働く」を積み重ねてきた側が、社会から福祉の場でしか活動できないと決めつけられている一人ひとりの実践をより広く伝え、価値観を転換させなければならないだろう。

 「ともに生きる」は、目にみえるものばかりではない。一人ひとりにフィットした生活スタイルをつくろうとすれば、制度は柔軟な運用が必要になる。
 経済的な負担が増大すると懸念されがちな障害者施策も、一人ひとりの違いを認めあう社会づくりのきっかけになる可能性を持っている。

 コロナの拡がりによって、ひとつの基準に当てはめ管理を強める時代がつづくだろう。
 障害の有無にかかわらず、一人ひとりの弱さや人間くささもひっくるめた通じあいが、まちかどのあちらこちらに生まれれば、もっと生きやすい世の中になるのではないだろうか。

 制度が確立してから働きはじめた若い人たちに、仕事プラスアルファを求めることは難しい。大きな課題だと思う。

 一人ひとりの顔がみえる世の中をつくりたい。


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