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マークザッカーバーグはlainを見ていない

最近もてはやされてる「メタバース」っていう単語に何か強い違和感を感じていて、その正体が分かった気がする。

メタという接頭辞は高次の物を表し、メタ情報、メタフィクションみたいな形で単語を作る。この際メタ情報は情報そのものに関する情報、メタフィクションはフィクションそのものに関するフィクションといった形で、自分より抽象度の高いものについて扱っている。

メタという単語にはほかにもいろんな用法があるらしいけど、僕的にはこの「上」に対する視線を示唆するような用法が一番しっくりくる。

じゃあメタバースに関しては何なんだと思って調べてみると初出はSF作品の『スノウ・クラッシュ』に登場する仮想空間らしい。このメタバースに含まれる「メタ」はばっちり僕の話している「メタ」の事らしく「meta」と「universe」を組み合わせて作った言葉らしい。でもメタバースのメタ性って一体全体何なんだろう。

メタバースの方が優れている点はいくつか挙げることができる。地理的な距離を無視した同期的コミュニケーションやアバターを通した自己実現など仮想現実でしかできないことも多い。でもこれらは現実の補完にはなれるが、現実を超越した特徴ではないと思う。

そもそも現実を象って作られたシュミレーテッドリアリティがいかにして現実より「上」のものになることができるんだろうか。メタバース自体がヘッドセットやらデバイスといった現実の存在に縛られている限り、メタバースは真の意味でメタ性を獲得することはできないんじゃないか......。

うじうじと考えているが、実はこの問題系についてすでに扱っているフィクションがある。「Serial Experiments Lain」だ。

この作品の中で出てくる「ワイアード」という仮想世界は模範的なメタバースである。人々はNAViと呼ばれる小型のデバイスを通してこの世界に接続し、その世界における楽しみや利便性を享受するわけであるが、このフィクションにはこのコンセプトをさらに推し進めた描写がなされる。ワイアードと現実の境界を破壊し、ワイアードを現実世界を超越した人々の新天地にしようと企てる男があらわれ、彼と主人公との思想的な対立が物語後半の中核のテーマとなる。この男:英利政美は、ワイアードの神になろうと色々画策するわけだが、主人公の岩倉玲音に「ワイアードって結局ちょっと優れた情報の集積所ってだけで、現実を超えることはできないよね」と喝破されてしまう。この対立構造は僕が「メタバース」という言葉に対して持つ問題意識と一致しているのだ。

シミュレーションが現実を超えられないということは何十年も前にlainによって明らかにされてるのに、ザッカーバーグは性懲りもなく社名を「メタ」にしてしまった。

これから導かれる結論はただ一つである。「マークザッカーバーグはlainを見ていない」のである。

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我々が目指す方向性に適した社名に変える時が来ました。「メタ」です。

英利政美が陥った誤謬と全く同じことをやる気だ。大企業の社長が何をやっているのだ。これはいけない。

というわけで、ザッカーバーグさん。Serial Experiments Lainを見てください。

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「待ってる」

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