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わが屋台骨(22歳)

寝坊ゆえか、今日(2024/1/15)の自分はどことなくぼんやり気味に駅までの通学路を歩いていた。

そんな気分で発車を待ちながら久しぶりに再生したのはPresenceシリーズで、電車を降りる頃には自分の脈のハリが戻っている感じがあった。
好きなものの話がうるさい自分だけど、どれくらいのこういう存在に支えられて立てているんだろう。と気になって、大きい骨から段々と、今度は帰りの電車でそれをまとめてみる。
大黒柱ではなく屋台骨なのがミソ。縁側沿いに落ちる柱梁みたいな、パラパラした構造体を想像してほしい。



1. 椎名林檎

出会ったのは15歳の頃だったか。部活終わりの5チャンネルの音楽番組で、縦書きの歌詞にヘンテコなマイク、けったいなセットで歌っているのを見たのは人生で1番鮮烈な出会いの瞬間だった。この話はしょっちゅう人に聞かせてしまっていて、しつこい。

それから色んな周縁を経て今に至る。彼女のすごいところは、その周縁にも超一流の音楽が存在しているところだと思う。周りを囲っている一人ひとりを追えば、ジャズやロックだけじゃなく、ダンスや映像までたらふく味わえる。おかげで随分カルチャーの身体が肥えたと自覚している。

1番目の屋台骨からは、生活にまつわる酸いも甘いもあらゆることを教わった。

2.カルテット

しつこいと思ったあなたはおれと仲がいいってこと。

16歳の頃に椎名林檎の周縁に見つけた、自分の心の中で一際でかいベンチマーク。主題歌のおとなの掟 目当てでゴールデン帯のリビングのテレビをそれとなくつけて、いつの間にかメインディッシュが逆転してしまった。
坂元裕二の作品の魅力のひとつは、そのキャラクターの生き様にある。彼らのセリフを聞いて覚えていくうちに、自分も自分の生き様みたいなものも大仰に描くようになってきたと思う。

道に迷う、というほどでもなく、心が漏電して次の一歩の出し方が分からないときによくカルテットを見る。他の坂元作品でも同じだけど、こっちにしか進めない・進みたくない という人たちが、社会の同調圧力の逆風に逆らって歩いていく痛快さが、"社会人失格"を自覚しながら音楽家を続ける4人の生き様には特にある。6話がすごい。

3.Presence
カルテット以来の松・坂元タッグはむしろ作品を楽しみにして見て、最終的には主題歌に自分の心を奪われっぱなしにされている。
大豆田とわ子の感想を自分より上手く話せる人はたくさんいるから、Presenceについてうまく話せるようになりたい。

主題歌のプロデュースを頼まれた藤井健太郎は、ヒップホップが「生き様」の音楽化であることに気づいたんだろう。情けなく仕方なく、でもカッコ可愛く生きる4人の役者が毎週代わる代わるラップする構成は、坂元ドラマの主題歌として最高到達点なのかもしれない。


なにより、このアルバムにはインストが入っていることが最大の功績に思える。
なにしろこのインストは、登場人物の誰のものでもない。だから視聴者はこのインストを自分のものとして持ち帰ることができて、このドラマのスピンオフのように生きることを許してもらえる。シティポップ調だからこそ、寝癖にや無精髭みたいなありのまま過ぎるリアリズムじゃなく、他人に向けて人生をカッコつけたいSNS的なリアルに応えている。これも6話の切れ味がすごい。

かくいう自分も精一杯の美文を絞り出しながら、朝選ばなかった服で散らかしたベッドのある部屋に向かっている。ヒップホップをシティポップでパッケージした構図はこんな風にどこにでもあるから、Presence 50000 くらいになれば自分も2バース蹴らせてもらえるかもしれない。自分はどんなリリックを書こう。IIIの とんちんかんでもどんでん返し!! はサンプリングしないと。


4.アンナチュラル

ベタなドラマばっかりだな、という声は堂々と受け止めよう。ドラマにおいて「ベタ」はレッテルじゃなくてブランドだと思う。
商業作品として毎週テレビで押し出され続けるからこそ、ドラマには「隠れた名作」が少なくて、面白いものはちゃんと社会現象になるし、そういうところも醍醐味だと思う。
それは逃げ恥もそうで、逃げ恥の脚本家がやっと描けたオリジナル作品がこれ。散々周りには語っているので、ここで初出しにできるような、書いていて自分でも新鮮な感想はなにもない。むしろ自分の感想に自分で飽きている。

自分は自分の感想にすら飽き始めているのに、オススメし続けたあげくいつの間にか自分の周りはみんな見ている作品になってしまった。なにしろこのまえ忘年会でアルナチュラルあるあるみたいな話をする時間があった。そういえば赤い公園もあの人たちに広めて、いつの間にかみんなのイチオシになってた。たぶん特技なんだろう。

結局このドラマという屋台骨があることで、自分は人生のスピード感を取り戻せる瞬間がある。
人生があるべきスピードに乗ると、スリルと仕事と他人と仲間、みたいなわずかな要素だけが残像として残る。少なくとも乃木作品においてはそこに「恋愛」はなくて、「仲間」の残像の一部に取り込まれがち。
カルテットでもアンナチュラルでも共通して出てくる数少ないキーワードは、「無縁仏」だったりする。大豆田でもアンナチュラルでも共通して出てくるのは、市川実日子みたいな仲間の存在だったりする。

カルテット・大豆田の6話とアンナチュラルの5話は邦ドラマ史に残ると思う。自分の屋台骨に数えるなんておそれ多いくらい。


5.宮崎夏次系
漫画のいいところは読めば判断がつくところだと思う。素敵な時代なので、1番好きな短編がネットに上がっている。

ゆのちゃんがキスしなかったパラレルワールドは存在しないんじゃないか。それ以外の行動は選べなかったはずで、そういう意味で坂元裕二とかに共通する自分の好みが出ているなと思う。自分は不器用にすらなれないときによく短編集を開く。


書いていて思ったのは、これは小さな変化を繰り返すための、22歳の自分の遺書(以降の自分にのこすもの、という意味で)みたいなものかもしれない。最近写真ばっかりいじってた23歳の自分は、それを読んでどう漕ぎ出すんだろう。



もっと細い屋台骨は他にもいろいろある。たとえば穂村弘のエッセイとか、おまじないみたいに読む木下龍也の本とか、くるりの名曲とか。キムチョヨプのSFも最近その位置に入りつつある。
だけどそれらは寄りかかりすぎるとバキッと折れちゃうような細さで、1本と数えるのはちょっと違うかもしれない。自分の中ではむしろ特効薬みたいな位置付けにある。


PUNPEEとかKID FRESINOとか小袋成彬なんかはまた別の位置付けで、BGMとして自分の生活に遍在している。あんまり寄り掛かろうとも思わない、スツールとかスニーカーみたいな存在に近い。よく観るYoutubeチャンネルとかもそうか。
好きってことを忘れるくらい好きなのは間違いないけど、屋台骨な数々のものは忘れようがないような種類の好きとして分類したい。

好きな街とか場所は屋台骨に入るだろうか。とは言っても代々木八幡とか軽井沢とか、ドラマのロケ地になっているような場所ばっかりだけど。
千住博美術館とか世田谷美術館みたいなスポットの方が、よっぽど襟が正されるスポットだとは思う。


ここまで書いてやり切った感を感じるのは、たぶん大体書き切ったってことなのかな。
正直もう好きなものは全然話し飽きていて、最近は一部の人とする嫌いなものの話の方が楽しいこともある。それって多分好きな人と一緒に、好きなもの以外を排斥しているような嬉しさを味わっているんだと思う。生きるためには色んな話をしなきゃな、働かなきゃな、戦わなきゃな、線引きしてこそかもな。

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