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ぼくの考える 人と生活  人生は短し、芸術は長しっていうけれど

 「人生は短し、芸術は長し」という。ヒポクラテース(紀元前460年ごろ~紀元前370年ごろ)の遺したこの言葉、要は一生懸命勉強しなさいという教訓の意味になる。そう聞いては、誰しも考えてから、確かにと納得することだろう。

 ラテン語でアルスロンガ、ウィータブレウィス(羅: Ars longa, vita brevis)と覚えている人もいるだろう。もともとは当時のギリシア語で、実はアルスはテクネ―であった。これって同じ意味なのだろうか?アルスがアート、テクネーはテクニック。アートとテクニックは似ているけれど、同じではない。

 古代のギリシア語から英語になっているので、その先を念のため確かめると、「the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult.」(ネット情報)とある。「病の峠は束の間である。経験に頼るのは危険だし、決断は難しいのだ。」と、僕の理解するところではこういう日本語になる。

 ヒポクラテースは、医学の父と言われる人で、『ヒポクラテスの誓い』は当人のものであるか否かはとも角としても、今日も見るべき、心にとどめるべき内容を持っている。

 例えば、「生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。/どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。/医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。」(ネットから)という言である。

 今日もなお大切な心得であろう。こう見てくると、テクネーやアルスに込められたものに、もうちょっとこだわった方が良い。つまり、ピカソの絵とかロダンの彫刻、バッハやモーツアルトを思うような芸術には、人間の言語に寄せられた歴史の深い意味合いを感じることが出来るということだ。

 しかし、昨今では「変化」したという意味合いで、元の意味を顧みる必要をなくしている。知ることもないから考えることもない。語彙数は数多くあっても、その語のよって来たるところを知らずにすむ。失ったものは大きいというが、例えば最初に取り上げたテクネーやアルスを知らないより知った方がいい。この語にまつわり、思うところを述べてその証拠としてみよう( ´艸`)。

 例えば、レオナルド・ダヴィンチ(1452年~1519年)。彼は「絵画は科学である。」と言ったという。ウッソー、そんなバカな、というのが現代人。ダビンチがそう言ったとすると、意味深いぞこれは、と僕だって思う。ルネッサンスを持ち出さねば済まないところだろうが、要するに「新しい」見解に聞こえたろう。聖書に基づいた絵ばかりではねぇ。

 しかし1500年以上も前、テクネーの持つ意味を知っていればこそ、彼はこの言を残したと見たらどうだろう。テクネーは、善というか、望ましいものに向う気があってのものだった。アリストテレースは、『二コマコス倫理学』という非常に重要な本を残したけれど、その初めに「善について」語り、あらゆるテクネーは何らかの善の探求だ、と指摘する。専門家なら、アリストテレースのテクネーの分析、目的論に話を持っていくだろうが、ちょっと待って、そこはいま立ち止まろう。

 人間が何らかの制作(料理も立派な制作)を行う。それを行う知識や能力を身につけて初めて制作できるんで、それら全体をテクネーの言葉で表現できた。ということは、学問的知識、科学的知識というかそうした性質抜きでテクネーは理解できないということだろう。

 ヒポクラテースの残した言葉、そして倫理的意識に込められたものも分かるように思う。皆さんはどうですか。アルスロンガ、ウィータブレウィスって、人生を振り返るためにも必要なものって思いませんか。僕など、しきりにあぁそうだったなぁ、と思うことが多くなってきたけれど、テクネーで考え直してみますか。

 (アートについても話したくなりますね。今回は短いけれど、ちょっと考えさせられるものがあるから、許してください。冒頭のぼけた写真は「ヒポクラテースの誓い」なんだそうです。「人と生活」?「人と哲学」?どちらにするか、ちょっと迷いました!)

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