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年よりは引っ込んでいろ、でしたね。

 少なくとも、20代、30代だったら、向かっていく覇気が相当勝っていたに相違ないんだが、70代半ばになると、絶望感が何やら勝ってくる。多分、ぼくだけではないだろう。

 昨今の日本だが、「繁栄」の表情をどれだけ演出しようとも、気に入ってもらう必要のある者の顔色ばかり気にする。大手を振って歩くのは、一般人に対して。そのように見えてくる。行きつく先は物理的破滅しかないだろうに、とすら思えてくる。

 ちょっと前までは、年よりは引っ込んでいろ、だった。若い人たちの活力がそう言わせたのかもしれないし、教育を戦前の精神主義的なものや、右往左往する戦後社会で、主体性乏しく大声振り上げた時代を越えられずに、年を重ねた人々が多いせいかもしれない。

 色々言えようが、少なくとも自分においてはチガウ。違わなくてはならない。
 第一に、これまで学んできたことを、根底から見直す時期が来たということである。第二に、若い力と智恵、意欲等の大切な特質を発揮して、夢を持ち、希望たくましく生きている人びとを、様々な分野で知るがゆえに、その可能性を、引き伸ばす大勢がほど遠くにあると言わざるを得ないことである。第三に、思考することを失った社会傾向が強まっていると、言わざるを得ないことである。地上波のテレビなど、代表するに足る!?もちろん、いい番組も作っているんだけれども、あえて申し述べる。

    分けても、第一の問題は大きい。それこそ、年を経ないと分からないことだからである。知りえたことを、自分の生き方の中心に置くことは、もちろん簡単ではない。しかし、その簡単ではないことを追求しようということに、異を唱える人はあまりいないだろう。色々ありながらも、それを数十年間続けているとしよう。そうして、学びに終着駅を決めれば、年よりは引っ込んでいろ、ということになる。それに対しては、経験が長いとうそぶいているしかない。決していけないということではないが、後は、自分の余生を、静かに無難に過ごすことになる。

 だが、根底から考え直す機会を持ったらどうだろう。自らの経験の偏りや浅さを、学びそのもの、情報や知識の偏りや浅さを知ることになり、年よりは引っ込んでいろ、ではなく、知りえたことを語れ、そして次代に残せ、ということになるのではないだろうか。

 自分はどうかと言えば、その真最中だ。終着駅は学びや思考にはない。無縁である。
 これから先、ぼくが知らなかったこと、排除してきたことなどを見直すに至った経緯を綴ることが多くなるが、あらかじめ、年よりの冷や水などと悪態をつかれないように、お断りをしておきたい(笑)。

 教育の問題を続けるつもりが、閑話休題。これもまたありで、お許しください!


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