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人と教育 恩師と友の面影(2) 中学校時代

    小宮隼人先生、そして吉田俊明君(その1)


 中学校時代とは、年齢的に12~13歳から15歳であろう。僕は1年生の時、急性腎炎を患って、5か月間学校へ行けず、留年して学校を変わった。だから卒業したのは16歳だった。体育の実習授業は禁じられ、毎回「見学」するという按配だった。

 横浜生まれの両親は、僕の病気を好機ととらえ、留年を理由に伝統ある市立中学への転学を図り成功した。当時は殊のほか学区外が難しい時代だった。学校側は成績から、このまま進級しても十分やっていけると留年を止めたそうな。

 もう一度1年生を始めた学校には市電を使って通った。屋上に新たな教室をつけ足して、急増した生徒を収めた立派なたたずまいの古い学校だった。ちなみに「ハマのドン」と言われる藤木幸雄氏(1930~)の母校である。(後で知ったことだが、藤木氏は我が父親の高校の後輩である。父の自慢は僕の祖父の「袖の下」で学校に入り、ビリッケツで出たということ。本当か嘘か、戦争体験が相当に根深いと思う大酒飲みだが、よく軽めの口をたたいた。)

 一クラス58人くらいの生徒がいた。どのクラスも、ぎゅう詰めである。昼休みには狭い校庭は混雑し、ボール投げもできない。僕はやがて生徒会長になるのだが、2千数百人を前に、毎週全校生が集合する「朝の会」(「朝礼」とは言わなかった)では生徒会を代表する挨拶や連絡を、校庭一杯三列に並んだ生徒たちに向かって、したものだった。体育は「見学」であるのに、体育祭では先頭で「校旗」を持って行進した。両親が喜んだのは確かだろう。

 2年生時のことである。酷かった。15クラスあって、僕のクラスは6組。全校で最も手におえないクラスという烙印が4月には押された。静かな時がない。つまり、どの授業中も騒がしい。休みになると、時々盗品売買をするのがいる。自転車店から数台の自転車を盗んでつかまり、新聞の片隅に載ったのもいる。最前列の机を蹴飛ばしてひっくり返し怒鳴っているのもいたっけ。

 クラス番長はめっきり腕っぷしが強く、乱暴者である。一方、すごみのある顔をもち、逆三角形の体格で、誰とも口を利かない全校の裏番長と呼ばれる怖い存在がいた。彼はクラスの「雑魚」など相手にしない。誰もが「さん」付けで呼ぶほどの存在だった。

 下っ端や、小さな悪事をこととする生徒がいたことは言うまでもない。1年時からの「非行児」によるいじめにあって悩んでいたのもいる。今ではあまり言わないが、「第二次非行ブーム」(今は少年非行あるいは少年犯罪の「第二の波」と言うようだ)と呼ばれた時代である。いわゆる団塊の世代が中学生の頃だ。(研究者、広井多鶴子さんの論がいい。参考にして欲しい。)

 しかし、問題児ばかりではない。「秀才」たちだっている。僕のクラスにも、男女数人はいたろう。それに、個性を発揮する子もある。その点はどのクラスも大同小異だったろう。しかし、とりわけ6組は、校内1の厄介な組と早々に言われた。担任は40歳前の美術教師で、早大出身。大概の級友が担任を好きだったが、担任もこれといった名案が思い付かないようだった。

 手の施しようがない、いわば無政府状態。小学時代とは全く違う、取り付く島もないクラス状況。このまま1年間を過ごすことは本当に勘弁してほしい、と思ったのは僕一人ではないはずだ。

 小宮隼人という54歳の先生がいた(いらっしゃった)。歴史授業の担当だった。5月初めごろだったか、小宮先生はご自分の担当するクラスに呼び掛け、先生から数人の人にも声がかかって、「討論クラブ」が組織された。男女10人くらい。最初はもう少しいたか?何が何だか分からなかったけれど、与えられたテーマで議論した。このクラブは、数か月間だったと思うが、今も覚えているのは「胸の名札付け、是か非か」の議論である。僕は躊躇することなく「是」の立場を取った。「非」側につく人が多かったし、討論に加わるわけではなかったけれど先生も「非」の立場だった。はっきりした「是」側はもしかして僕一人だったかも知れない。

 討論では次々に「非」側の論点に反撃を加えた。僕には好き嫌いを越えて「是」の立場に確信があった。ある時小宮先生個人に自分の論点をぶつけてみたことがある。先生からの答えはなかった。笑って聞いてくれた。

 この先生が前代未聞だったことは、「討論会」を組織したことだけにあるのではない。子どもたちの発言を録音(当時は大きなオープンリールを使った)し、それをほぼそのまま手書きで起こして配り、必ず反省会を開いたことである。そして、先生が発言の仕方について、具体的に色々有益なコメントをされた(大変な仕事である)。言葉の切れ目がない発言、論旨が混乱したもの、根拠があいまいか示していない発言などをプリントを追って指摘され、望ましい発言、言葉遣いについて教えてくれた。
 
 僕には、「絶対反対です。」という発言をとらえて、「絶対」という言葉は使ってはいけないと注意された。これらの教示をものにできないなんてもったいない話。本当にためになり、僕を育ててくれたと思う。思うに中学時代にこうした「授業」を受けられることには万金の値がある。稀有の幸いであった。

 僕のクラスでは、秀才派の二人の女性が出席していたことを覚えている。この人たちなら、やはりねと思う。しかし他クラスを含め、他の人は、ほぼ覚えていない(申し訳ありません!)。

 「討論クラブ」が下敷きになっていたのだろう。ある時の放課後、僕と吉田俊明君が教室に残って話をしていたところ、通りかかった小宮先生が声を掛けられた。クラス改革始まりの瞬間である。だが、このことに話が及ぶと、ちょっと吉田の話をスル-するわけには行かない。すでに故人となった彼のことを話さないわけには行かない。

 吉田は、非常に残念なことに病を得て亡くなり、もう10年近くになる。語りつくせぬくらいに思いが残る友人であった。吉田はずっと学級委員長に選ばれるような生徒で、横浜の強豪バレー部(9人制)のアタッカーだった。その上、映画スターになってもいいスタイルとフェイス、品と貫禄の両方を合わせ備える男だった。最後は大きな会社の社長になり、『1971年夏』(文芸社発行、2012年)という本を書き遺している。

 彼も越境入学で、家も近かったのだが、やがて僕の住まいが変わり、高校は離れ離れでいつしか音信が途絶えていた。彼の家もいつしかなくなっていたが、人がほってはおかない男だから、心配無用と思っていた。30代で、6組のクラス会が中華街で晴れやかに開かれた時、誰でも知る大企業に勤めている彼と久々に出会った。頭に手をやる仕草も昔通りで、彼らしいと思った。

 しかし、彼の書いた本を読んで、大変な時代を送って学校を出ていたこと、ノルウェイで仕事をしたことなどを知り、かなりのショックを受けた。一級建築士という彼の父親が死んだ中学2年、友だち数人と直ぐに飛んで行った時のことを思いだした。日の落ちた暗い中、狭い玄関に顔を出した吉田は「残念だったよ。」と一言そう言った。「残念」という言葉が持つ重い意味、精いっぱいの悲しみ、僕は内心たじろいだ。中学2年生ですよ。この言葉がこういうようなときに出るなんて、本当に驚いたのである。

 吉田には二人の姉がいた。一家を支えていくのが楽であった筈がなかった。しかし、生活に汲々としている家の子のくせに、僕にはその頭がなかった。深く考えもせなんだ・・・。

 そうそう、最近病没したもう一人の親しい友人もあった。彼は身長も高く、神奈川県で何度か甲子園の土を踏んだ、戦前からの名門野球部の主将を務めた。二人は女性にもてる二大男子生徒だった。その二人が我ら2年6組には揃っていたのである。
                                                      (後に続く)

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