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ぼくは考える 人と文化 「骨」の詩句 

       月光仮面と「骨」? 

  

 川内 康範(かわうち こうはん:1920年~2008年)という作家がいた。僕の世代は、知らず知らずのうちに氏の作品にお世話になっている。少なくとも、僕など「月光仮面」が、氏の作品であることを最近まで意識したことがなかったから、いい気なもんだ。

 「月光仮面」って誰、初めて聞いた、と首をかしげる若い人たちも増えたことだろう。僕の世代のちょっと後だったので、僕はもう夢中にならなかったけれども、30分番組になり、1958年に放映されると、お風呂屋さんから子どもたちの影が消えたと言われるほど大ヒットした。若い人でも、「月光仮面のおじさんは・・・」の歌くらいは知っているかもしれない。

 最近知ったことだが、月光仮面は正義そのものではなく、あくまで「正義を助ける者」で、殺しはない。ここは大事な点で、「銭形平次」(1930~1957)を書いた野村胡堂(1882~1963)と一致する。銭形平次は何度もテレビ化されているし、再放送もあるので知られていますね?

 その川内康範氏、ネットでちょっと調べたくらいで、ほとんど知らないと言ったほうが良いのだが、何ということだろう。故青江三奈さんが歌って大ヒットし、友人と飲むお気に入りの酒場の眼の前にある「伊勢佐木町ブルース」の記念碑、あの詩(詞)が氏のものだったとは。ハマッ子の自分としては、子どもの頃から伊勢佐木町はなじみ深い通りだった。だから、当時はなかった通りの中央に位置するこの碑を見ると、何とも言えない気がする。

 他に有名な彼の歌の詩を上げるなら、「誰よりも君を愛す」、「君こそわが命」、「骨まで愛して」、「恍惚のブルース」、「花と蝶」、「おふくろさん」等々、ビックリもの。僕だって知っているし、歌えるものばかりだ。

 有名な「おふくろさん」騒動(2007年)が気になって川内氏のことを知った程度なのだが、彼は1920年(大正9年)生まれで、僕の父より2年先輩。父同様、戦争では最もひどい体験をしている世代だったのである。ここは考えて受け止める必要大ではないか。

 戦地に赴く息子に、母親たちまで、大君に捧げたいのち、お国のためにと口にするのが常であった時代。生きて帰れ、と皆さんの前で言うことは憚れたのである。伊藤久雄(1910~1983)さんが歌う「暁に祈る」(1940年)は、戦前随一の軍事歌謡であるが、敗戦後もラジオから流れるほどの何かが込められていた。本心では家族と別れ、戦争に行きたくはなかった兵士達の共感を得て愛唱され、ヒットしたものだと言われている。

 歌詞をじっと見るとあぁそうか、と納得されるものがある。言葉に隠れた感情が滲んでいるようなのである。詩の詩たるゆえんであろう。冒頭の一番のみ、歌詞を掲げる。
    ああ あの顔で あの声で
    手柄頼むと 妻や子が
    ちぎれる程に 振った旗
    遠い雲間に また浮かぶ

 この詩(野村俊夫:1904年~1966年)に、戦争に出る夫を驚喜する妻と子の姿を思うとしたら、まだ年端のゆかない子どもたちだけだろう。できたら最後まで読んでみてほしい。ちなみに詩人は、作曲家の古関裕而(1909年~1989年)さん、歌手の伊藤久雄(1910年~1983年)さんと福島県の同郷で「福島三羽烏」とか「コロンビア三羽烏」と呼ばれたそうな。

 さて、「おふくろさん」の歌詞に同じ思いを僕は感じる。多分、父の代なら誰しも川内氏の込めたものが、一も二もなく手に取るように分かったであろう。しかし、残念ながら戦争を知らない世代の大半には、それがよく分からないのだ。戦前の天皇制軍国教育の大きな間違いは良く知られていると思うが、これは戦後の教育の大問題と言ってよいのかも知れない。有名学校とテストの成績ばかりになったエリート街道の道路整備に余念のない政策が中央にあり、そこを走るバスに乗り遅れまいとする国民を大量に産んで、こうした不幸、通俗的に詩を解してその先に行かない、という気風を作ったんじゃないか。言い過ぎですか?

 川内さんに「骨まで愛して」(1966年)という大ヒットした歌がある。映画にもなったんだそうだが、当時の僕は学生だった。ヘンな日本語の歌詞が歌われるようになったものだと思っていた。ずっとそう思っていた。それが氏が亡くなって数年後、骨というのは、戦地の骨、という解説をする人がいた。多分、テレビだったのだと思う。そうか、そうなると話がまるで違ってくるではないか。

 詩を読まねばならぬ。だが女の嘆き歌にしか見えない。
   生きてるかぎりはどこまでも
   探しつづける恋ねぐら
   傷つきよごれたわたしでも
   骨まで骨まで
   骨まで愛してほしいのよ
とやられてしまっては、どうにもならない。当時の僕も、今の僕も。

 無理?に解釈すれば、若い身空でこの世を去った者の人生にも、恋に苦しみ抜く思いや心があったことを忘れないで、か。いや違うな、第一こうした詩句が綴られるのは妙だ。3番まで取り付く島もない。骨になったら、愛しようがない。そうではないのか。

 大正生まれの川内康範さんが、後代の人たちとかなり違った個性の持ち主だったことは分かる。どこか、僕の父を始め、あの世代には似たところを感じることがあるからだ。まして詩人(詞人)である。氏は、ご自分の著作に、作詞家、作家、脚本家、政治評論家の4つ書いたことがあるという。政治とは冗談でしょうと思いたくなる。しかし大真面目、彼は政治にかなりの熱意を注ぎ込んでおり、大物のひしめく自民党等に出入りしながら、憲法9条を守り抜く立場だったっていうのだから、今の僕たちには理解が難しい。

 「骨まで愛して」という詩には何かあるのかもしれない。突飛なことを書いて、マスコミの注目を得ようなんて思っていないとすれば・・・。       

竹内浩三

 竹内浩三(1921年~1945年)という詩人のことを知った。この数日前のことである。45年に亡くなった。フィリピンで戦死、何もない。骨もない。彼は「骨のうたう」という詩を書いている。その中に次の詩句がある。

    骨を愛する人もなし
    骨は骨として 勲章をもらい
    高く崇められ ほまれは高し
    なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
    絶大な愛情のひびきを 聞きたかった

 この詩の始まりは、
    戦死やあわれ
    兵隊の死ぬるやあわれ

    とおい他国で ひょんと死ぬるや
    だまって だれもいないところで
    ひょんと死ぬるや
    ふるさとの風や
    こいびとの眼や
    ひょんと消ゆるや

とあり、次々に詩句が紡ぎだされる。これらの言葉を書く人の心の内を思うのは自然だが、しかし胸苦しくなる。単に想像して書いているのではないからだ。逃れようのない外の力による必然を、消し去りようもなく思って、書いているからだ。そして骨だ。「骨を愛する人」である。

 川内康範さんが竹内浩三さんを知っていたかどうか知らない。けれど、竹内さんを思えば、言葉の力が見出した「骨」という語の恐ろしいまでに絞り切った人間の声が聞こえてくるように思える。川内さんの通俗的に見える詩に込めたものに、竹内さんと同じようなものがこもっていると僕は思って考える。

 『きみは/いくさに/往ったけれど』という芝居が7月17日(日)、午後4時から東京の王子、北とぴあ さくらホールで、たった1日だけれどある。もう2018年から全国で公演しているのだそうだ。家にも学校にも居場所を見つけられない高校生が、竹内浩三さんと出会うのである。フィリピンで戦死した竹内さんと出会うのである。

 面白そうだと思ったら、ぜひ調べて予約を入れた方がいい。一般は3800円、中・高生は1500円だそうだ。実はこの芝居も、竹内浩三さんのことも、青年劇場の矢野貴大さんに教えていただいたのだ。矢野さんは、『眞理の勇氣』に出ていた役者さんで、今度は竹内浩三さんを演じるのだそうだ。『眞理の勇氣』は、まさに「エポック・メイキング」の作品で、僕は数日前のブログnote にそのことを紹介したばかり。ご覧くださいました?

 僕は、必ず行く!竹内さん、川内さん、全然違うようで、違わないものがあるから、ですね。

(今回思いもかけず、の note になりました。今後ともよろしくお願いします。)

   

 

    

    

 

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