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考える力と喜び、知の拡大のできる今

 その昔、引っ越し先の近くに、昔の東大新人会に居たという哲学者(経済学部の出身)が住んでいることを知って、哲学の恩師に話をした。師はその名前を知らないようだったが、3~4年先輩に当たるその方が、「新人会」に属していたという話を聞いて、ぼくに言われた。
 「実はぼくも新人会に誘われてね。恩師の伊藤吉之助先生にちょっと話したんだ。そうしたら、『君は学者になりたいのか、社会運動家になりたいのか、どっちだ。』と聞かれたんだよ。学者を目指しているというのがぼくの返事で、『だったら、止めなさい。』と言われてしまった。それ以来ずっとひっかかるものがあってね。あの当時、新人会に入るというのは大変なことで、余程の気持ちがないとねぇ。ぼくにはそこが足りてなかったと思う。その方にぜひ会って話を聞きなさい。ぼくらはもうがん箱に片足が入ってるからねぇ。」と苦笑された。
 占めて二回、その新人会に居たという先生にお会いしたと思う。二つのお話をよく覚えている。一つは、プレハーノフを読みなさい、ということ。もう一つだが、長い科学史の本まで翻訳した哲学者(京都帝国大学法学部出身、ぼくにはその人に関する論文もある)で、その奥さんがショパンの作品をピアノで弾いて歓迎してくれたという話。二人は、関西のある旧制高校の同窓だったという。戦前もいいところで、その時代にピアノがあって、それを優雅に弾きこなす奥さんがいるなんて、とぼくはびっくりしたし、不思議でもあった。・・・しかしその謎が解けた。10年位前にようやく知ったことだが、彼女は名の知れたテノール歌手のお姉さんだったのである。
 それはそうと、ぼくがここで記したいのは、「プレハーノフ」である。誰だって?でそこは構わない。要するにプレハーノフなら、レーニンでしょう、というのが学生運動華やかなりし頃の話だ。ぼくなどはレーニンのいくつかは読んでいたし、トロツキーの文学論はほとほと素晴らしい議論だと感嘆もしていた。トロツキストと言ってさげすむのをその頃から好まない。高校時代の話だ。

石庭、素晴らしい美的感覚ですね

 それから何年、いや何十年経っただろう。今になってようやく、ぼくたちや先輩諸氏たちは、非常に限られた文献に支配されていたということが理解される。あらためて、知っていたことを考え直さなければならない、と痛感する。
 ただ、戦前、暗黒の軍国主義一辺倒で言論が規制された時代に生きた研究者や芸術家と、戦後に生きた研究者や哲学者を一緒にはできない。戦前とは、明治維新前後の時代から100年も経っていない時代で、分かり易い話はいくらでもできそうだが、反って難しいものがあると言ったほうが良いと思う。第一に、限られた文献や情報のなか(と言っても今のぼくらが十分だというわけではない)、頭脳を絞るだけ絞って考えた人々の思想的格闘を、忘れたくはないと思うのである。
 「力には力を」式の考え方は、幼稚な発想に基づいている。考えて見れば、もちろん人間は幼稚な発想しかできないのではない。言うまでもなく、その時代時代、その地域地域にあって、もっと普遍的な、もっと深い考え方や着想を得ようともがいた思想家、哲学者があったのだ。それらを忘れ、学ばず、軽視して、狭くは個人、広くは国家や民族、いずれにせよ儲けや自己利益にしか関心が行かなければ、カネと力を持つかどうかしかなくなる。

アザミにアゲハ

 だから教育があり、学校がある。筋道の通った考え方や知識を、特定の恵まれた人ではなく、一人でも多くの人々に伝え、身につけさせるのが新しい時代に突き付けられたのである。
 しかし、その反対に、その学校や教育が、新たな技術・知識を受け継いで上の指示をやりとげるだけの養成機関になってしまうことが考えられる。いわゆる愚民化政策もそのうちの一つだと考えて差し支えないと思う。
 今を見ると、儲けや自己利益にしか関心が行かないように、カネと力を持つかどうかということに、人は夢中になりがちではないか。しかも、人によって年齢・時期はさまざまだが、その道からドロップする数多くの人々がいる。「上から下まで」社会はとめどもなく不安定となっていく。
 学校、教育、受験の在り方、勉強の中身(ぼくは「閉塞知」と呼んでいる)を批判的に考える力は、どうしても弱らせるわけには行かない、万人に与えられたものだ、とぼくは思う。
 「力には力を」式の考え方は、幼稚な発想に基づいている、と繰り返して発言したい。これはもう世界的、国際的な問題なのだ。どういう「からくり」によってそれが強まったのか、維持されているのかについては、それぞれのアプローチがあろうかと思うが。

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 それはそうと”プレハーノフ”に示されている問題である。そして戦後から今である。
 与えられた文献や情報は、歪んでいたり、間違っていたり、要するに非常に限られたものだったな、と思う。「ヘゲモニー争い」というのが、問題の幼稚さを物語る。この言葉は、ぼくの友人哲学者が言ったのだが、多くを語る必要はないかも知れない。しかし、いつかぼくなりの理解を具体的に示すこともあることだろう。
 何から何まで幼稚だとか、ヘゲモニー争いだというわけではない。ワクワクするような知識や技術の進歩はあるし、人物や思想も、番組もニュースもある。確かに、金と汚職にまみれたオリンピックを始めとする競技という面はあるし、摘発しなければならないが、それは選手たちでなく、この「幼稚」な争いに血道を上げる世界の話だ。ごっちゃにしない。

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 今年の「3.11響き合う詩と音楽の夕べ」の 義捐金は、前号でもお知らせしたように、「4万171円」お預かりしました。会場費、フライヤー印刷費、コピー代、配達費用等々を1万円頂戴し、3月20日、「3万171円」を「特定非営利法人 いわき放射能市民測定室」にお送りしたことをご報告します。有難うございました!


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