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エメーリャエンコ・モロゾフ『屍の歌』 翻訳:夜田わけい


追悼者の群れがあまりにも沢山大統領の墓所に押し寄せたので、墓荒らしと区別がつかず通してしまった門番が責任を取って、大統領の遺体を探す羽目になった。私はここでデレク・ハートフィールドの一節を引用し、次のようにこの状況を表現したい。
「すべては虚構だった、虚構の中で虚構がまた立ち上がり、それはリアルとなって世界に還元されるのだった。」
およそありとあらゆるもの、有象無象に森羅万象、それらは国家の内部において輝くのだった、日本語という言語の中に構築された拙い骨格の内部に。なんの因果かマッポの手先、……デヴィ夫人デヴィ夫人。黒柳徹子徹子でございます。ジョイデヴィもウィキリークスも崩壊した、アサンジていたのである。
意味は特にない。意味は最初から存在しない。すべての言葉はあらゆる意味の無意味である。あらゆる場所に、花束が……。
ここから先は意味のない文章が続く。意味、それは無限に広がる広大な地平であると同時に、極小化された尖塔の一端でもある。例えば、具体的な霊として、2000年前に現象化されたプリヴァ・イヴァンチョフの『シン・ゴジラ』を引用しよう。

ずっと扉を開け続けていた。ずっと終わりがなかった、ずっと物語が続いていた。それは夢だった、最後の最後に洞窟の中の炎の灯りに辿り着くまでずっと、歩いて進まなければならなかった、そして日々には終わりがなく、永遠に続いていた、音楽のように切れ目がなかった、郵便のようにぶつかった、青、青、日曜日、あらゆるイメージの氾濫が心の中に萌した。それは日曜日の午後の青空を眺めていたときのことだった、突然上空から降ってきた本の中のページの物語が頭の中に入り込んできた、寄生虫のように、その物語は体の中を食い荒らしていき、やがてその物語に飲み込まれ、物語が始まった、その物語の中には最初誰もいなかった、僕が主人公だった、僕は彼女を作り出した、そして娘を、息子を、カルナを、ヨゼフを、作り出した、それからだんだんと世界の本質


この引用から察せられるように、あらゆる事象は事象の地平面上に存在する、そしてその地平面に存在しているということ自体で、私たちの生活を脅かしているのだ、この菜食主義への忌避によって、私たちは虫を愛するべきだという思想に取り憑かれるべきなのであり、私たちは自分自身の思想信念を世界像の一部として投影するべきなのである、という一連の信念によってまた我々であるべきなのである、ということを言いたかったのだが言いそびれた、言いそびれた側から物語が始まった、また同じことの繰り返しだ、空気、空気、空気、ノート、開かれたノート、書かれている文字は『ドンキホーテ は わたし だ』そして いや まさに それが
  しんじつ である から  こそ  
   わたしは さくしゃの し

以上の文が、大統領の墓碑には刻まれている。墓は荒らされたあと、荒らし尽くされたあとに元に戻され、物語は幕を閉じようとしている。そして閉じようとしたところから、また新しい物語が始まるのである。わかるだろうか? この新しさが。大統領は、必ず死ぬのである。なぜ死んだのかは、墓碑には書かれない。必要のないことだし、生前の遺言にはなぜ死ぬのかまでは残せない。あるのは、ここに眠る、という意志だけである。


翻訳者注:なお、翻訳に際し、RadioheadのDaydreamのPVから、風景を借用した。

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