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物語の遺産

物語の遺産

物語の遺産について語ろうとしている。
かねてより伯爵邸には膨大な財産が残されていた。その財産の一つが、本の山であった。そのうち幾つかについての書評を試みることが、本稿の目的であり趣旨である。
一際目につくのが『タイプ:ヌル』という本である。この本はポケットモンスターのウェブ上に紹介されていたありとあらゆる裏技・バグ技を網羅的にまとめたもので、ビュー数稼ぎ欲しさに「トクサネシティの宇宙センターのしろいいわの前でフエンタウンでもらえるタマゴを孵化させるとジラーチが生まれる」「1000回ロケットを発射すると何かが起こる」といったデマの類のものと、その検証の全貌が含まれているのだが、鈴木けんぞうやガナヒビのような有名YouTuberもこの検証に加わっていて興味深い。何より、「タイプ:ヌル」自体が一つのポケモンであることも興味深い。
この本の面白いところは、この本を読んでいるうちに読み手の動作性にも問題が生じうるということである。要するに、バグ検証の本であると同時に、読み手もまたバグってくるのだ。今まで右を見ようとすれば右を見ることができたのに、左を見ることになってしまう。読者はそこに、パラレルワールドとしての自分を発見することになるだろう。
この手の、読者にバグを起こさせる作品の一例として、『mjk、l。;』が存在するが、この作品は存在すると言いつつ存在しない書物であるという点が取り立てて重要であるように思われる。読者は作品世界内の物語を探検することになるのだが、それと同時に自分自身の認識の限界も思い知らされることになり、それによって自分自身のバグを認識していくのである。バグ的な作品の例としては、宮内悠介の『偶然の聖地』の例を引くまでもないが、この『なんとなく、クリスタル』方式で展開されていく物語とその細部は、人間の認識の標準に合わせると、ともするとバグを起こしかねないものであるという点は特筆に値する。

破綻した作品

破綻した作品には、島清次郎の『地上』の例があるが、『890』のような、人間の認識が根底から揺るがされるような読書体験も存在することを加味するならば、我々の認識は存在するありと凡ゆる書物に対して適切に離れているのであり、AIの発達がこの手の物語の記号論的な分析に影響を与えるように思われるが、『wせdrftgyふじk』のように偶然性の美学に委ねたものもあり、その場にある「意味」に対して敏感に反応するように、あらゆる物語は作られているのである。
そして物語の破綻は、ここでは作品としての価値を貶めるものにはならない。およそ凡ゆる作品にその原型となるプロトタイプが存在するように、すべての作品の意味は作品の意味の忌避によってしか生じ得ない。すべての存在する批評用語という批評用語も、喪のアナロジーとして認識可能であるが故に、発生してしまったこの物語の作品世界というものは、人間の実存の掛かった大凡の事柄に対して、反旗を翻すべくして存在しているのである。要するに、ふわふわしたものを捕まえるには虫取り網が一番ということである。
夜田わけいの評によれば、こうした実存主義的な作品を書く作家というのは、得てして寡作であるという。人間の人間たる壁を前にして、人間の存在は霞んでしまうからというのに相違ないだろう。彼曰く、日本文学館は芥川賞を受賞した作家から、自筆の原稿を集めるためにわざわざ書いてもらうといったことをやっているそうだが、それらは作品を執筆する際の形式性といったものを無視した愚行にも等しく、押し並べて彼らに曰うべきは作品はすべて書かれた形式こそがものを言う、ということである。すなわち、Wordで書かれたものはWordファイルで存在するべきなのである。そしてそのファイル形式でしか存在できないものが、確実にあるのである。そしてその形式性の重視こそが内容に対する批評にもなり得るのである。
しかしながら私はこの夜田わけい氏の私見には反対である。もし形式性こそが作品の本質であるならば、作品のファイルのフォーマットによっては人口に膾炙しない異端のバグファイルのようなものまで、作品として扱うべきとなってしまうからである。しかしそれを扱えるほどには、我々の文学観は進歩してはいないので、結局のところ文学性というのは、既存の形式をいかにリスペクトするかというところに定位すべきなのである。

寄生的に自立する小説群

これまでに述べたように、凡ゆる作品はそれ自体独立したものとして存在するということはまずなく、それ自体寄生的なものであるということになるのである。

https://music.apple.com/jp/album/danger-zone-single-version/1535719104?i=1535719115

このDanger Zoneという曲が、レーシングの世界と結びついているような形で、すべての作品は独立した価値を持つのではなく、すべて何かに依存した価値を持っているのである。そのような存在の仕方こそ、例えば小説家になろうの小説群のもつ奇妙な流行と衰退の推移にも似た世界の発展系として見ることができるのではないか。
先述した夜田氏はこの説に反論して、小説家になろうの世界群は、単なるゲーム的リアリズムとして理解するべきであるとしているようだが、彼のこの説には奇妙な面が見られる。それは、彼の作品自体も、小説家になろうの発展の一形態として理解されるべきという主張を、彼が自身の作品の中で展開しているという点にこそある。これについては、彼の著書『78億と1230の妄想』を参照されたい。
もっとも、こうした作品評それ自体が、すべての作品とは独立した価値を持ち得ないということの証明のために書かれているという意味で、それ自体独立的、立証的であるというのは致し方ないことであるが。
DDB氏の『y67う8い9お0pー』については、この論点を補強するような非常に具体的な顕現が見られる。そのため、論として成立しているかということの論証なしに、それ自体が熱く語られてきたことを述べておかなければならないのだが、それにしても彼のこのDDBという名前が、遊戯王で一時期禁止カードにまでなった「ダークダイブボンバー」をモデルにしているということはあまり知られていないので、詳述に値するかもしれない。
いずれにせよ作品が自立した価値を持ち得ないということは、この作品でもって証明済みになるだろう。作品は作品として生まれた瞬間から、寄生的に自立しているのである。

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