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統一運動《5/20 今日は何があった?》

1948年咸鏡南道の興南の本宮特別労務者収容所に移送 👇
1959年 「鋭和散弾空気銃製作所」設立 👇
1967年関東学生大会(東大・安田講堂) 👇

1984年愛天日の制定の時に作られた「愛天燭」が伝授される
1986年31教派90人の米国キリスト教聖職者が「東亜日報」に声明文を掲載(韓国)
1987年第8回「東西宗教の出会い」セミナー開催(増上寺ホール)
1992年 韓国、「世界平和女性連合」全国市・道大会 全州、室内体育館
1993年 「真の父母と成約時代」宣布アメリカ巡回講演 ヒューストン、ダブルツリー・ホテル
1994年韓国の宣教師10名が来日
1999年 世界真の家庭世界化前進大会 スロバキア、ブラチウスラヴァ、新国立劇場
2000年 南米・ヨーロッパ巡回講演 イギリス、ロンドン、マリオット・ホテル
2006年 「天宙平和連合」祖国郷土還元120か国大会 埼玉

《1948年咸鏡南道の興南の本宮特別労務者収容所に移送》
真の御父母様の生涯路程 2

興南本宮特別労務者収容所に移送(一九四八・五・二〇、午後三時ごろ)

 今から数十年前の、五月二十日が思い出されます。この日がどんな日かといえば、平壌内務署に捕らえられて行って、裁判を受けて、興南の監獄に移送されて行った日です。

 むちで打たれ、無念さと、悔しさで、泣きかけて、天に、恥ずかしくて顔を覆い、姿勢を正す時がいくらでもあるということを知らなければなりません。それゆえに、私が監獄に行くようになる時は、殺人囚と手錠をかけてくれと言いました。私は殺人囚の友達になりました。

 手錠をはめて、興南に行くのに、十七時間かかったのです。ところで、車中で何を思ったでしょうか。あぜんとするのです。私があぜんとなれば、神様はどれほどかわいそうかというのです。それで、決心して窓辺を眺めながら、すべての山野の景色を眺めながら、どんなに深刻であったでしょうか。私一人で行けば逃げやすいのですが、その時一番悪い強盗と二人で組になって手錠をはめられて行きながら、考えたことがどんなに息が詰まったことでしょうか。

 興南の監獄へ移送されて行く時、山の谷間にさしかかって、谷川の道に沿って歩いたその時が、本当に新たに感じられるのです。くねくねした山の谷間の道を歩いていったその時が、今も忘れられません。その歩みは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。監獄生活をどのようにしていくのか。難しいけれど、私は行くのです。その時が新しい自我を覚醒できる良い機会になったのです。

 監獄に入っていく時、先生は、サタン世界から神様の世界へ移っていける一つの結果をもってくるためには、このような現象が起こるのだと考えました。そのような所に行っても、正体を明かさず、内外に変わらないと考えました。

《1959年 「鋭和散弾空気銃製作所」設立》
真の父母経p1116

鋭和(イェファ)散弾空気銃の製作と「統一産業」
 真の父母様が世界的な経済基盤を造成するために、最初の一歩を踏み出したのは、鋭和 散弾空気銃工場の設立と経営であった。協会が創立されたのち、一九五九年五月二十日、鋭和散弾空気銃製作所の認可を受けて仁川に工場を建て、これを基盤に 「統一産業」を設立されたのである。真の父母様は、韓国の産業を復興させるためには、基礎となる機械工業が重要であると考えられ、「統一産業」を設立し て、機械工業の世界的技術を蓄積された。「統一産業」に込めた精誠は、「統一産業」だけのためのものではなく、韓国の未来と世界のためのものであった。小 規模で始めた「統一産業」の優秀な機械工業技術は、自動車と軍需産業をはじめとする韓国の基幹産業の発展に、重要な役割を果たしたのである。

6 私たちは、教会活動をするのですから、若い青年たちが関心をもって愛用できる物とは何かを考えなければなりません。そのような要点に最もかなっているもの が、散弾空気銃です。これは、技術的に見てもそうであり、韓国におけるこれからの実績を見てもそうであり、私たちだけが研究している物なので、これさえき ちんと発展させれば、必ずある時にヒットするというのです。

 最初に私たちが特許を取得して製品を造るようになりましたが、新しい製品を造る際には、直ちに素晴らしい製品を造ることはできません。お父様もこの 工業系統について勉強した人なので、それがどのような発展段階を経ていくのか分かります。新しく発明した製品を造って、その年にそれを成功させるのは絶対 に不可能です。最低限、三年以上の経験が必要です。このように考えて始めたのです。

 仁川に工場を造りましたが、その時は工場に何もありませんでした。助手が一人いて、工作機械だけがありました。そして、何個かのカツターとのこぎり、かんなしかありませんでした。それが散弾空気銃工場の始まりです。

《1967年関東学生大会》
日本統一運動史(光言社)p236



東大安田講堂で2000名が集まり、 関東学生大会が開催されました。

弁論の部より
『世界の危機と日本の使命』
東京大学 堀 展嘉(信義)
「・・・かつて前途有望な若き学生たちが、 この安田講堂において激励を受け、あの銀杏並木の
下を行進し、 未来の希望を託しつつ戦地におもむいていったあの姿を、 私はまざまざと思い浮
かべることができるのであります。 戦後二十数年を経た今日、彼らの平和と自由の切なる願いを実現する時が今来ているのであります。 再び世界の危機を迎えた私たちは、 人類の真実の叫びに耳を傾け、日本の新しい世界的使命に目覚めるべきであります。 歴史的償いとして多くの戦没学生を出したこの東大に学ぶ一人一人が、自己の立身出世や名利追求のはかなさ虚しさを知り、 純粋な心で人類の平和と幸福のために、天与の知性と恵まれた才能を捧げ尽くす道を歩むときに、今世界の四方から聞こえてくるもの悲しい終末的叫びはやがて消え去り、涙も死も悲しみもない、 新しい世界が開かれるものと確信し、 私の弁を閉じるものであります。 」 (抜粋)
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