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統一運動《7/20 今日は何があった?》

1953年姜賢實女史が大邱市で40日開拓伝道 👇
1957年 最初の夏季40日伝道派遣(韓国主要70カ都市、120カ所) 👇
1965年夏季40日開拓伝道開始 400名、125都市(~8/28) 👇


1965年 ヨーロッパ巡回、20カ所の聖地選定 デンマーク、コペンハーゲン
1967年 日本40日夏季開拓伝道937名、483都市 日本 👇


1967年金沢での御言「家庭的勝利の基盤」 👇
1967年 真の父母様日本巡回 金沢 👇
1973年第1回「国際指導者セミナー」(米国)
1973年アメリカ開拓伝道の為、日本の宣教師38名渡米
1984年 ダンベリーの受難 米国コネチカット州 👇
1988年宗教法人世界基督教統一神霊協会編集「私は拉致・監禁された!  統一教会員の「信教の自由」 「基本的人権を奪う牧師の実態』」 (光言社)出版
1993年 「真の父母と成約時代」宣布アメリカ巡回講演 ボイシレッドライオン・ホテル1996年 「真の父母と真の家庭」アメリカ12か都市巡回講演 ワシントンDC
2006年 「天宙平和連合」祖国郷土還元120か国大会 タンザニア、ダルエスサラーム、モーベンピック・ホテル
2006年龍平ヘリポート竣工奉献式(韓国、江原道・龍平リゾート)

《1953年姜賢實女史が大邱市で40日開拓伝道》
真の父母経p256

大邱開拓伝道

 真のお父様は、新しい食口が集まると、李耀翰牧師に有名な牧師と神霊的な指導者たちを訪ねさせるなど、伝道に目を向けられた。特に一九五三年七月二十日、姜賢實伝道師に、「生きていらっしゃる神様が、私たちの側に立って協助していらっしゃることを忘れてはならない」という激励のみ言をかけられ、服一着だけを持たせて、大邱の開拓伝道に出発させられた。この時、初めて原理が公に宣布されたのである。そして、八月中旬、李耀翰牧師を再び太邱に派遣された。姜伝道師が築いた土台の上に教会を建てる、というみ意があった。そのようにして、三、四十人の新しい食口が集まり、礼拝を始めるなど、キリスト教団の迫害と反対の中でも、教会が早々に出発できたのである。

11 草創期には、私一人でした。そのように始め、何人かの食口たちを集めて、全国にいる神霊的な人たちを訪問させました。その中に、伝道のため大邱に送った姜賢實伝道師がいました。その伝道師は、凡一洞(ポミルドン)の天幕教会に責任をもっていた女性でした。凡一洞の谷間には寺しかなかったのですが、一番端の家におかしな青年がいるといううわさを聞いて、伝道しようと訪ねてきたのです。それで、その時、み言を語ってあげたのですが、神様が役事をして、毎日毎日訪ねてくるようになりました。そうするうちに、その天幕教会を捨てて統一教会を信じる決心をしたのです。
 そうして、その後、伝道のために大邱に送りました。大邱は、以南(現在の大韓民国)のエルサレムといわれる地域なので、そこに送ったのです。送る時は、何も持たせずに送り出しました。旅費も与えず、「出ていって伝道しなさい」と言って送り出すしかない、その時の事情がありました。ですから、霊界からたくさん役事しました。大邱に行ったのですが、行く所がないので、霊界がコーチして、会うべき人に会わせてくれたのです。
 大邱教会は、そのようにして始まりました。

12 姜賢實伝道師に、「大邱に行って開拓伝道をしなさい!」と言いました。それで、開拓伝道に出て泣きながら歩いているので、神様が勧告したのです。大邱に行った時、「あなたは今ここに来て泣いているが、私は千年の恨を抱いて働いている」と神様から勧告されたので、逃げようとまとめていた荷物を再びほどいたそうです。よくよく見ると、神様は、こちらの事情を一つも聞いてくれません。(ただ、)開拓伝道をしなさいというのです。
 ですから、「私の代わりにどこそこに行きなさい」と言われて行くと、ある時は汽車の切符を買って待つ人がいたり、行く道中に祝いのお膳の支度をして待つ人もいたりしたのです。

13 伝道をする時は、座って心配ばかりしてはいけません。お金を使ったからといってできるものではないので、精誠を尽くさなければなりません。そうして祈ると、天が教えてくれるのです。足に豆ができるほど活動し、事を起こしてこそ、そこから役事が始まるのです。
 姜賢實の証を聞いてみてください。知人が一人もいない大邱の真ん中に、開拓伝道に行ったのですから、誰か歓迎する人がいたでしょうか。通りをさまようしかないので、どれほど落胆するでしょうか。「神様、どこに行かなければなりませんか」と自分の身の上を嘆くと、「あなたは今、一日でそのような状態になるのか。千年、万年の間、そのようにし続けてきた神の心情と比べれば、話にもならないではないか」と言われたそうです。苦労をもっとしなければならないというのです。神様と出会い、神様のみ旨を探し求めていくのは、易しいことではありません。

14 お父様が大邱にいた時は、一カ月間に十三回も引っ越しをしました。そこでは、私を知らない人がいませんでした。キリスト教徒たちが写真を持って歩きながら、私の顔さえ見かければ、「文誰それが現れた」と大騒ぎでした。どこそこに現れたというと、教会で毎日のように「異端の頭である誰それを追放せよ」と大騒ぎしながら、その都市全体がうなり声を上げて追放しようとしたのです。

《1957年 最初の夏季40日伝道派遣(韓国主要70カ都市、120カ所)》
真の父母経p460

四十日伝道の出発

 真の父母様の聖婚以降、一九六〇年七月二十日から始まった夏季四十日啓蒙伝道活動は、全国に民族復帰の火種をつける契機となった。全国四百十三地域に六百五十九人が派遣された。ソウルでも家庭訪問と原理講義を継続し、パゴダ公園(現在の夕プコル公園)など、主要な公園で伝道が実施された。食口たちが真の父母様と共に四十日間、麦だけの御飯を食べながら、あらゆる苦難と迫害に打ち勝ち、心情的に一体化した期間だった。

1 アダムからイエス様までの四千年歴史、アブラハムから今までの四千年歴史を蕩減するための蕩減期間として立てたのが、四十日伝道期間です。このような峠を越えていかなければならないのですが、行く道は一つしかありません。いくら広く、何千里にもなる道でも、最も早こは一つしかないというのです。蕩減の道も同じです。四千年路程があり、四十年路程がありますが、それは四十数を中心とした期間です。この峠を越えるためには、近道を築かなければなりません。この代表的な期間が、四十日伝道期間だというのです。

2 夏であれば夏、冬であれば冬を中心として活動した四十日伝道期間が、歴史的な期間になるでしょう。この期間に、皆さんは誰も越えられない峠を越えていかなければならず、誰も行けなこを行かなければなりません。そのようにしなければ、復帰の山頂を越えていくことはできません。これが問題です。この道は、必ずや行くべき道です。生きている時に行けなければ、死んでからでも行かなければならなこです。天の道を訪ねていく人々は、いつでも孤独な人々です。自分の周囲のすべての環境がいくら整然とそろっていたとしても、自分自身が越えていくべき峠において、それを克服できる装備をそろえていなかったり、その山頂より低い基準に立ったりすれば、その人は必ず敗北者の行路を歩むようになります。ですから、責任をもった人々はいつも深刻なのです。皆さんが統一教会の食口の一員として付いていくのは簡単かもしれませんが、責任をもった人々は全体を率いて導いていかなければならないので、いつも深く眠ることができません。その責任者がどのようにするかによって、勝敗の結果が左右されるのです。

3 統一教会は、一九六〇年から本格的に夏期四十日伝道活動を始めました。その理由は、私たちが今日のすべての環境に支配されてここで終わるのではなく、未来に拡張しなければならないからです。そのために、世界的で全体的な分野に関係を結ばなければならないというのです。活動するすべての存在も、現在、現れたその時代だけでなく、未来を象徴し、世界全体、制限された環境全体を象徴し、過去を象徴して、一つの代表的な表象として現れています。ですから、皆さんは過去を代表しているというのです。歴史時代を代表し、この世界を代表し、未来を代表して生きているというのです。そのような人生を生きる存在が貴いのです。

4 皆さんは、夏季四十日伝道期間に麦飯を食べなければなりません。皆さんは祭物にならなければなりません。祭物は、自我意識と所有観念があってはいけないのです。私たちは、僕の位置を経て、養子の位置を経たあと、息子、娘の位置に進まなければなりません。イエス様は祭物として亡くなられました。祭司長になろうとしたのですが、民たちの不信によって祭物として亡くなられたのです。再臨主は、祭司長の資格で来られます。そうして、子女の位置に進むのです。一九六〇年一月一日の朝、お父様は皆さんに、「三年間、服役する立場に立ちなさい」と言いました。「心では父母の心情をもち、体では僕の立場に立って、血と汗と涙で祭物になり、祭司長の位置に進んで贖罪の責任を負い、息子、娘の位置に進んで父の代身者となってサタンを審判しよう!」。これが私たちの標語であり、実践要綱です。皆さんは父の心をもった息子、娘として、血と汗と涙を流さなければなりません。血と汗と涙で道をぬらし、血と汗と涙で村と村を連結しなければなりません。

5 皆さんが真の父母の息子、娘になるためには、蕩減法を通し、父母の骨髄を通して出てきたという原理的な条件を立てなければなりません。そのようにしてこそ、息子、娘の位置に出てくることができるのです。このような条件を立てる期間が、一九六〇年を中心に、一九六一年と一九六二年の三年間にわたって行った四十日伝道期間でした。この期間には麦飯を食べました。なぜ麦飯を食べなければならなかったのでしょうか。この三年間が蕩減期間だったからです。この期間は、父母様の直系の子女を中心として四位基台を復帰して越えていく期間であり、皆さんは父母を中心としたカイン・アベルの関係を立てて、カイン・アベルを一致化させていく期間でした。

6 解放以後、民族の哀しい歴史に対して代表的な責任をもち、民族が望む基盤を願ってきた道があるとすれば、それは統一の道であり、そのような集まりがあるとすれば、統一教会しかありません。このように歩んできた統一教会なので、滅びることはできません。私たちが伝道に出掛けた時、老若男女を問わず、すべての人に追われました。嘲られる悲しみによって込み上げる涙が露のようにたまり、落ちていくやるせなさを抱いてきたのです。朝日を見つめながら、あすには輝く日の光を浴びる自分の姿を希望とし、きょうは悲しみの日、忍耐の日、きょう訪れる夜は十字架の時間として、これを克服することを数十年経ながら今まで生きてきたのです。このように追われてきた統一の群れが、何か分かりませんが、韓国で愛国、愛族の群れとして認められるようになりました。私たちが国のために闘い、努力していることが認められたというのです。ですから、今や宗教団体を語るとすれば、統一教会を抜きにすることはできないでしょう。排斥していた群れがひざまずいて、涙で歓迎する基盤を築いたのです。

《1967年 真の父母様日本巡回 金沢》
日本統一運動史(光言社)p271

 7月20日午前11時30分に真の御父様御一行が金沢教会に到着されました。そして11時55分から約4時間御言を語られ、昼食をはさみ、 李耀翰先生のお話の後、 午後10時半近くまで御言を語られました。会翌日の21日も出発される前に約2時間御言を語られ、 小松空港を出発されました。

《1967年 日本40日夏季開拓伝道》日本統一運動史(光言社)p272
 『原理講論』の御言を学んだ土台の上に、 真の御父様の指導により、 7月20日から8月28日まで、 全国483か都市において、 937名が40日間の開拓伝道に出発しました。 これは、全国に神様の基盤を拡大していくとともに、 御旨を実践していくことを通して原理の御言をさらに自らのものとし、その信仰を確かなものとし、天の伝統を相続していく実践訓練でもありました。

《1967年金沢での御言「家庭的勝利の基盤」》
日本統一運動史(光言社)p271

◇御言
 「先生は1960年の時に・・・ 3人を信仰の子女として立たせて、 そうして約婚させて結婚式をやっている。 ・・・それによって再臨されて新郎新婦が決定されるとともに、3人の弟子がイエス様の前で祝福されて勝利した基準に立ったことになる。 だからそれまで3人の弟子に対して、実体的サタンが讒訴するその基準を解決した。 ・・・ アダムの家庭、 ノアの家庭において失敗した責任が復帰された形になる。」(抜粋)
◇ 宮原徹氏の証し
 「心に残っている御言は 『開拓に行ったら、 その地の一番かわいそうな人の所へ行って尽くしてあげるんだね』 です。 地獄を天国に作り変えるのが御旨。 主は捨てられた石を頭石にする。 御父様の固い決意と許しと愛を感じ、 思わず涙が出ました。
 一日が過ぎて、 皆庭にムシロを敷いてゴロ寝。 私は眠る場所がなく、数人の兄弟と共に隣りの墓地で仮眠しました。 夜中の3時頃、 「私も救って欲しい」 と足を引っ張る者が来ました。 横に寝ていた兄弟が 「ギャー』 と言って逃げ出しました。 さらに多くの霊が寄ってきました。耐えられなくなって寝場所を変えました。 御父様のことを思い、 朝まで寝られずにいました。
 後日、 久保木会長の証しの中に、 金沢で御父様が話された後、休まれるようにと布団を敷いたのですが、 朝まで2階の廊下にうずくまって、下にいる兄弟を見つめながら祈っておられ
たといいます。」(「ファミリー」 1986年7月号)
◇ 揮毫 「幸福之元天父愛情」

《1984年 ダンベリーの受難 米国コネチカット州》
真の父母経p803

聴聞会での証言とダンベリー収監


 一九八四年七月二十日、アメリカのコネティカット州ダンベリーにある連邦刑務所に収監された真 のお父様は、収監の前日に発表した声明書を通し、この事件の発端は脱税問題ではなく、政府の権力 濫用による宗教迫害であると主張された。これに先立ち、六月二十六日には、アメリカ国会の上院司 法委員会憲法小委員会の聴聞会で、堂々と無罪であることを証言された。

1 私は潔白です。私はいかなる過ちも犯していませんし、ただ、政府の権力濫用と迫害の犠牲者にす ぎません。アメリカ全域の数千の聖職者たちが、私に対する政府の迫害について抗議し、宗教の自由 守護という名のもとに一週間ずつ、私と入監することを決意しました。
 神様は一九七一年、私に対して、「アメリカに来てキリスト教信仰の復活運動を展開し、この国の霊 的基盤を回復させなさい」と命令されました。アメリカで信仰なき生活の暗い霊的雰囲気と宗教的な 偏狭が現れる時期に、霊的覚醒を起こすために私を送られたのです。私自身は、共産政権の監獄で、 死ぬ直前の状況まで耐え抜きました。私は、アメリカを霊的な死から目覚めさせる神様のみ旨のため であれば、むしろ監獄に行くことを願います。皆さんが私の活動を理解するならば、本当に私が税金 を詐取するためにアメリカに来たと信じられるでしょうか。
 事件の発端は、税金問題ではなかったのです。これは、政府による教会内の問題に対する侵害でし た。私が有罪判決を受けたのは、私の宗教的な信念と活動以外に、いかなる理由もありません。これ から私は、教会の世界本部を、この国のために祈り続けるダンベリー刑務所に移すでしょう。私が神 様に感謝することは、人類の歴史上、最も困難な時期に、私を宗教の自由守護のための指導者として、 アメリカの霊的な覚醒運動に火をつける道具として用いていらっしゃるということです。神様の祝福 がアメリカに臨むことをお祈りします。

2 私がダンベリーを訪ねていく時、世界の統一教会員たちは、「お父様が行かれたらどうなるのですか」 と言いましたが、「今から新しい世界が始まることが分からないのか。ダンベリーの向こう側に天が何 を準備しているか皆さんは知らないが、私はきょうそれを目にしている。アメリカの全国民が頭を下 げ、世界の人類が屈服する希望の土台を築く太鼓の音の響きが、皆さんには聞こえないのか」と答え ました。夢を抱いてダンベリーを訪ねていったというのです。
 監獄に入る時は、アメリカの朝野に影響を与える力をもった男が、敗者の悲しみの道を行くかのよ うな姿でしたが、私は敗者ではありません。「あすの朝が明け、この門を開いて出てくれば、あなたた ち(アメリカ政府)は秋を迎え、私は春の園を迎えて、新しい芽を出すだろう。あなたたちは、この 青い園に足を踏み入れることができないという千年の恨を抱くだろう」と言いながら、堂々と夢の道 を歩んだのです。

3 一九八四年七月二十日は、本当に永遠の歴史の中から抜いて消し去りたい日でした。お父様はダン ベリーに出発する瞬間にも、皆さんを激励し、皆さんに希望を吹き込んでくださいました。二十日の 夜十時にイースト・ガーデンを出発し、ダンベリー刑務所までお供いたしました。何回も唇をかみな がら、固く決心しなければならないと自ら念を押しましたが、我知らず流れる涙をこらえることはで きませんでした。車から降りる前にも、御自身に差し迫ってくることについては少しも心配されず、 かえって私(お母様)を慰めるため、とても気を遣われる姿を目にしながら、私はただただ、どうす ればよいのか分かりませんでした。
 お父様は出発する前に、「私は監獄まで解放しに行く」と語られ、「私のために泣くのではなく、み 旨成就のために祈りなさい」というみ言を何度も繰り返されました。そして、二十二日のきょう、早 朝にお父様が私に電話を下さり、皆さんに「神様の召命を受けた者として、キリスト教を燃え上がら せよ」と伝えてほしいと言われました。お父様の自由を保障できるかどうかは、皆さんにかかってい ます。今は、神様が私たちに下さった最後の機会だと思います。今までしてきたことと、また、今指 示しているすべての内容を、あらゆる精誠と積極的な活動によって、必ずや成就してください。皆さ んの精誠に神様が感動し、サタンは手を挙げ、歴史は新しい時代を迎えるでしょう。

4 お父様の恨がいくら多いといっても、神様の恨に比べることはできません。「(天の恵みを)そっく りそのまま与えよう」と思っていたら、監獄に行くことになったのです。日本帝国主義の統治下でも 監獄に行き、北朝鮮に入っても監獄に行き、大韓民国に来てからも監獄に行き、アメリカに行っても 監獄に入ったのです。ソ連、中国の監獄まで見据えながら行動しました。死ななければ、監獄に行く のです。
 しかし、私は死ねません。監獄に行くようになっても、滅びることはできないというのです。私が 監獄に行けば、監獄の壁を貫いて出てくるのです。アメリカのダンベリーの監獄に入る日、世界の統 一教会員たちが来て、止めどもなく涙を流すのを目にして唖然としました。「皆さんはダンベリー刑務 所の鉄の門だけを見つめている。ダンベリーの塀の向こう側の世界は見ることができずにいるが、私 はそれを見つめている」と言いながら監獄に行ったのです。
 解放のラッパの音が聞こえ、刈り入れの収穫の歓声が聞こえてきます。見ていなさいというのです。 間違いなく跳躍が起きるのです。跳躍が起きなければ、跳躍が起きるように指導して教えなければな りません。今や、アメリカが私の世話にならなければならない時が来たのです。

5 神様が人を愛するとき、愛のふろしきを倉庫に残しておいて、八〇パーセントだけ愛したとすれ ば、欲深い人はじっとしていません。倉庫をすべてかき分け、なめ尽くすように探してみて、間違い ないというときに、初めてこちらに振り向くようになるのです。人間はそのように欲深いというのです。神様は、神様の愛を残らず受けさせるために、そのように欲張りな人間を造りました。ですから、 愛に乗っていく欲心は、千年の歴史が歓迎するのです。それゆえ、私は、愛に乗ってアメリカに行っ たのです。
 今、前面では反対していますが、また裏面では歓迎するのです。上は反対しますが下は歓迎し、現 在は反対しますが未来には歓迎するというのです。それはどれほど素晴らしいでしょうか。ですから、 私は心配しませんでした。監獄に入って横になっていても、どれほど気持ちが楽だったか分かりませ ん。よく消化できます。どれほど気楽か分からないのです。他の人々は「死ぬ」と言って大騒ぎなの に、私はよく眠ることができ、よく食べることができました。監獄が問題ではありません。

日本統一運動史(光言社)p401

◇ 神山威氏の証言
 「聖日の朝、午前2時30分に先生は起床される。 午前3時より午前5時まで祈祷され、 5時より敬礼式。 まず先生が礼拝し、 その後私が敬礼する。 先生が日本語で祈られる。 世界のため、食口のため、 イーストガーデンとこの刑務所の先生がおられる場所が心情のきずなで固く結ばれるよう祈られる。 午前6時30分にはキッチンに行き、 食事ができるよう準備される。 僕の僕として歩もうとされる先生の姿を見るとき涙を禁じることができない。 イーストガーデンとダンベリー刑務所をつなぐ心情の石として小石5個を先生は選ばれる。 5個の石は人種カラーを象徴している。 先生はこの場より人類の解放を祈っておられる」
 「朝のキッチンでの仕事を終え、 ベッドルームに戻る。 ベッドルームの床をふく。 先生がぞうきんを持たれ、 小さく身をかがめ、 一番汚い場所をふき掃除される姿を見、 慌てて 「私がしますから」と止めると、止めるのも聞かずになおも続けられる」
 「先生は、 先生と私 神山、 そして200名の囚人との関係の摂理的意味を話してくださる。 「(この刑務所は坂の上にある) この宿舎まで来る坂は、ゴルゴタの坂を意味する。 200名の囚人、 左の強盗、 そして右の強盗、両者とも今は先生を援護する立場に立っている。 イエス様の時代は、 左の強盗がイエス様の反対圏に立った。 現在は違う。 だからイエス様は赤 (血) の十字架、 悲しみの出発であり、先生は白い十字架、 喜びの出発、 勝利の出発である。 このダンベリーの刑務所は、永遠に歴史の中に記憶される。 そして先生が刑務所で使用したすべては博物館に入る。 そして万民が悔いて胸を打つ、 涙する材料となるであろう」 と説明された」 (神山威、 「ダンベリー日記」より ✍️

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